正直さうな人
人はじかに自然に住んでいるのではない。めいめいの観念の世界をつくり上げ、それを自然界に投影し、さらにその上に感情、意欲を働かせて独特の想念の世界をつくり上げ、その中に住んでいるのである。 (『紫の火花』岡潔) |
「自然」を「現実世界」と言ひ替へてみると、我々は「現実世界」と「観念世界」といふ2つの世界に同時に生きてゐる。
これはいかにも数学者の発想のやうにも思へますが、実は誰でもみんな2つの世界に生きてゐるのです。ただ、問題は往々にしてそのことに気がつかず、「私は現実世界に生きてゐる」と思ひ込んで暮らしてゐる。これが厄介なのです。
例へば、ある人と面と向かつてゐるとしませう。あるいは、頭の中でその人を思ひ描いてゐるだけでもいゝ。
私はその人と相対しながら、
「この人は正直さうな人だな」
とか
「この人は裏があるやうな気がする」
などと、心の中で思ふ。
最初のやうに思ふとき、私は
「正直さうな人が私の目の前に(現実に)ゐる」
と考へてゐる。
二番目のやうに思ふときは
「信用できない人が私の目の前に(現実に)ゐる」
と考へてゐる。
しかしこれはどちらも、現実の人ではないのです。現実の人ではなく、私の観念の中にゐる人なのです。
言ひ方を変へれば、その人は私自身の観念を反映して私の目の前にゐる。現実のその人は正直さうな人でもあやしい人でもない。ただ「その人」なのです。ただの「その人」を私が「正直さうな人」にしたり「あやしい人」にしたりしてゐるにすぎない。
こゝに厄介な問題があるのです。
ただの「その人」を私が「正直さうな人」にすれば、私はその人に好感を抱き、信用する。その人と良い関係を持ちたいと思ひ、その人がうまくいけば嬉しい。
ところが、同じその人を私が「あやしい人」にすれば、私はその人を嫌ひ、避けたくなる。その人と疎遠になりたいと思ひ、その人がうまくいかないと喜んだりもする。
さういふことを考へるので、私は誰に対するにしても、
「この人はかういふ人だから、私はこのやうに対する」
といふ考へをしないやうに心がけるのです。
そして、
「この人がこのやうに見えるのは、私の中にそのやうに見える素質があるからだ」
と考へ、その人について湧いてくる一切の判断や先入観を手放すやうに努めるのです。

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