善人であり続ける
罪を犯す者は自分自身にたいして罪を犯すのである。不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分にたいして不正なのである。 もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。 (『自省録』マルクス・アウレリウス・アントニヌス) |
前回の記事に続き、アウレリウスの『自省録』から彼の自戒をもう一つ。
「罪を犯す」とは「誰か他者に対して悪を行ふ」ことだ。ふつうにはさう考へます。
「誰かを騙して、詐欺の罪を犯す」
「誰かを殺傷して、暴行の罪を犯す」
などといふふうに。
ところが、アウレリウスは
「不正を行ふのは、自分に対して罪を犯すことだ」
と言ふのです。
これは鋭い指摘だと思ふ。理屈つぽいやうに見えて、単なる理屈ではない。
不正を行ふことがなぜ罪になるかと言へば、自分自身を悪なる者にしてしまふからです。ふつうには、誰かに苦痛を与へるからそれが罪だと考へる。もちろんそれも悪なることには違ひない。しかし罪の本質はそこにはない。「自分を悪なる者にする」。これが罪の本質だといふ考へです。
例へば、誰かを騙すとしませう。騙された人は被害を被り、苦痛を受ける。それは確かにつらいことではあるとしても、騙された人は少なくとも、自分を「悪なる者」にはしてゐない。
騙す行為で誰が一番苦しむかと言へば、実は騙した本人です。彼が罪を犯して、悪なる者になつた。その報いを受けることになるのは、彼自身です。
その報いといふものには、法律や社会による罰則もふくまれるが、それが本質ではない。「自分が悪なる者になる」といふ以上の罰則はないのです。「悪なる者」になつた自分が、さうなる前のもとの自分に回帰するためには、厖大な条件を立てねばならない。
騙した人はさういふ罰則を自らの肩に背負はす運命として、一方、騙された人はどうしたらいゝのでせうか。
復讐をしたくなる場合があるでせう。しかし、決して復讐をすべきではないと、アウレリウスは考へる。
なぜ、すべきではないか。復讐をすれば、そのことによつて自分自身まで「悪なる者」にしてしまふからです。だから逆説的なやうですが、復讐をしないことが最も賢明な復讐の方法だといふことになる。
騙されるといふことに限らず、何らかの苦痛を受けたとき、最も良い対処法は、
「自分が善なる者であり続けること」
です。
アウレリウスのかういふ考へ方は、聖書の教へともまつたく軌を一にしますね。
「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者(自分を「悪なる者」にする者)のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子(善なる者)となるためである。 (マタイによる福音書5:43-45) |

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