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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

プログラムを書き換へる

2022/07/28
問題を解決する 0
聖書
プログラム

「この宇宙は全体で一つの巨大なスーパーコンピュータだ」
と想定すると、理神論のやうでもあり、愛や情が排除されてドライな感じがするかもしれません。

しかし、物質世界を運行させる物理法則をふくめて神の創造原理が絶対的であると言ふなら、それはあらかじめ組み込まれたプログラム通りに動くコンピュータに喩へても、おかしくはないでせう。むしろそのやうに想定したほうが、我々の人生に起こる様々な幸不幸の原因と結果をより的確に理解できるのではないか。

宗教的には「サタンの讒訴」とか「神の恩寵」などといふ理解の枠組みがあります。それは否定しないながらも、一度別の枠組みで考へてみませう。

例へば、『原理講論』の「復活論」にある「悪霊の再臨復活現象」。これは、ある人に清算すべき罪科が残つてゐる場合、神はその人に悪霊を送つて苦痛を起こさせる。そしてその人が苦痛を「甘受」すれば、それを蕩減条件として罪科の清算に充てるといふのです。

この現象の一連のプロセスはコンピュータのプログラムによつて、ほぼ自動的に遂行される。蕩減の大きさとして「減償法」「報償法」「増償法」があり、方法として「逆の経路」といふものがあるが、それらもプログラムです。

「神が悪霊を送る」といふが、それは謂はば比喩的な表現であつて、神はそのプロセスにいちいち介入なんかしない。将棋AIが最適最強の駒を選ぶやうに、最適な悪霊が選ばれるのです。

ただし、当人が苦痛を「甘受」するかどうかまでは、プログラムで決まつてゐない。スーパーコンピュータが管理する世界の中で、我々一人一人は自分専用の(パーソナルな)コンピュータ(PC)を持つてゐる。個人がどう対応するかは、その人が自分のPCにどんなプログラムを組み込むかによるのです。

「復讐」のプログラムを入れたPCなら、「甘受」といふやうな選択肢は絶対にありえない。必ず仕返しをすることで問題を解決しようとするはずです。その人が「甘受」といふ対応をしようとするなら、さうなるやうにプログラムを書き換へる必要があります。こゝに責任分担論の肝がある。

どうしたら私自身の責任で書き換へることができるでせうか。

元々の「復讐」のプログラムも、はつきりと自覚して組み込んだのではない。無意識の裡に、まるでそのプログラムしかないかのやうに組み込まれてゐたのです。

しかし、無意識であればあるほど、ことは厄介です。放つておけば、毎回ほぼ自動的に立ち上がつてしまふ。

これを切り替へる方法は、今の私が考へ及ぶものとしては2つです。

一つは、学ぶこと。
もう一つは、体験することです。

一つ目について考へてみませう。

学ぶとは、知恵を学ぶことです。どの宗教的知恵も、「復讐」と入力しても宇宙コンピュータは動かないと教へてゐます。

例へば、
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
といふ聖書の一句は最も典型的な智恵の一つです。

このやうにプログラムを書き換へよと諭してゐます。

しかし「敵」と言ひ「迫害する者」と言ひ、表現としてはかなり極端です。もう少し日常的な状況で考へてみませう。

「私はあなたが嫌ひだ」
といふ言葉は、面と向かつては言ひにくいとしても、心の中では思ふことがある。面と向かはないSNSではこれに類する言葉が溢れてゐます。

「あなたの考へは私と違ふ。まつたく相容れない」
「あなたのやり方は気に入らない。和解したいのならやり方を変へてくれ」

この言葉、言ひ方を変へれば
「あなたは私の敵です」
といふことでせう。

このやうに表明するとき、その言葉は
「私の敵であるあなたは間違つてゐる」
と言つているやうで、本質はそこにはない。

実は、
「私はあなたのやうな人を受け入れることはできない」
と、自分自身の限界を表明してゐることに他ならないのです。

このことに気づくと、変はるべきなのは「あなた」なのか「私」なのかと考へるやうになります。そして、それは「私」だと思へば、私のPCのプログラムを「復讐」から「甘受」へと書き換へるしかない。それはまた、私の「許容量」を拡大することでもあるのです。

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