潔い愛
愛って、何か感情や、気持ちが優先するものだって皆さん思い込んでいたりするけど、本来は電気やガソリンのように純粋なエネルギーとして利用できるものだと感じていて、愛に対してそういう発想があるだけで全然変わってくると思いますね。 (『「違うこと」をしないこと』吉本ばなな) |
これは本書の中で吉本さんと対談してゐる「宇宙マッサージ」師、白井剛史さんのセリフです。私自身、長い間、そして今もつて「愛とは一体何だらう?」と考へてゐながら、よく分からない。ところが、白井さんの愛の定義が何だかとても腑に落ちる気がします。
まづ、「愛」と「愛情」を区別する。「愛」は純粋なエネルギーだから電気のやうに潔いのに対して、「愛情」はどこかねつとりしたところがある。
ところが、我々は往々にしてこの二つを混同してゐて、特定の誰かに特定のかたちの優しい行為がないと「愛されてゐる」と思へない。例へば、お母さんが夜昼なくお乳を飲ませてくれ、嫌な顔もせずにオムツを替へてくれる。さういふ行為に「愛」を感じると思つてゐる。
しかし、それは「愛」ではなく「愛情」です。
お母さんの行為は確かに「愛」に起源があるには違ひない。しかしその「愛」がお母さんといふ実体を通して「情」のかたちで現れたものです。
体感的には「愛」よりも「愛情」のほうが感じやすい。だから「私はお母さんに愛された」と思ふ。しかしそれなら、神の愛はどうでせう。
我々はいつ、どのやうに神に愛されたのか。神は私にお乳を飲ませてくれたか。オムツを替へてくれたか。そんな身近な世話は何一つしてもらつた体験がない。それなのに、「神は愛だ」といふ。神の一体どこが「愛」なのか。
神の愛は「愛情」ではなく、「愛」そのもののエネルギーである。さう考へると、腑に落ちるやうな気がするのです。
白井さんは「愛」の体験を、こんなふうに語つてゐます。
ある日、あるお宅に出張マッサージに行つたときのこと。その家には、他人が来ると必ず奥に隠れて出てこない猫がゐる。
ところが白井さんがマッサージを始めると、その猫が奥からゆつくりと出てきた。しかも出てきたばかりか、仰向けになつてお腹を見せてごろりと寝つ転がつたのです。
白井さんは特別に猫好きな人ではない。猫が可愛いといふ気持ちもない。ところが、マッサージを始めたとたん、猫はお腹を出して寝つ転がつた。犬でもさうですが、仰向けになつてお腹を出すといふのは、最高の信頼を示す行為なのです。
なぜ、かういふことが起こるのか。
白井さんがマッサージに臨むときの大前提は、
「すべてを受け入れる」
といふ愛のスタンスなのです。
「これから、こんなふうに愛しますよ」
といふやうな「愛情」を見せる意図は何もない。
白井さんのいふ「愛のスタンス」とは、言つてみれば、
「これからこゝに愛のスペースを作りますよ。あなたは何の代価もなくこのスペースに自由に留まつてください。ありのまゝのあなたでゐて大丈夫ですよ」
といふ感じなのだと思ふ。
これが「愛は潔い」といふ感じなのです。
神の愛も、この潔さだと思ふ。スイッチを入れると、電気が流れて電灯がパツと点くやうな。
親の愛も、こんな潔さがあるのがよいのだと思ふ。徒に「この子のために、こんな躾、こんな忠告をしてあげないと」といふやうな、ねつとりした「愛情」は、子どもには却つて鬱陶しいのではないかな。

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