体験の中のメッセージ
罪というものがあるとすれば、これがそうだろう。他人の体験で自分を創り上げてしまうことだ。… あなたがたは自分で体験するまで待たず、他人の体験を(文字通り)福音として受け入れ、実際の体験をするときには、すでに知っていると考えていることをなぞる。 (『神との対話1(宇宙を見つける 自分を見つける)』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
「自分の体験」と「他人の体験」。これは「体験」と「知識」と言ひ替へてもいゝし、「実感」と「観念」と言ひ替へてもいゝでせう。
神によれば、「他人の体験」(知識、観念)を「自分の体験」(体験、実感)よりも優先させるのは、良くない。良くないどころか、罪だとさへ言ふ。
これはどういふことでせうか。
教会で神について多くのことを教はる。「聖書にはかう書いてある」「イエスはかう言はれた」「聖人はかう教へた」…。それらの「言葉」によつて善悪の基準が作られていきます。
その教へに合ふことは「善」で、合はないなら「悪」と考へる。もしも自分の体験を通してその教へに合はない「実感」を抱けば、正しいのは教へのほうであり、自分の実感はおかしいと判断する。だから自分の実感を捨てるか、あるいは何とかして教へのほうに合はせようとする。
この傾向性を神は「罪」と表現するのです。
ちよつと極端な言ひ分のやうな気もしますが、考へてみるべき問題だとも思ひます。
ニールとの対話の初つ端で、神は
「私とあなたがたとの最良のコミュニケーション・ツールは『体験』である」
と言つてゐます。
そして、
「その反対に、あらゆるコミュニケーション・ツールがうまくいかない場合、最後に仕方なく使ふのが『言葉』である」
とも言ふのです。
神は生きてゐる。昔も今も、変はらず、生きた人間と接触する。何を通じて? 何よりもまづ「今、こゝの生の体験」を通じて。
だから神は、
「いつでも、自分自身の今の体験に最も注意深く耳を傾けなさい」
と忠告するのです。
ところが多くの人間は、最良の「体験」を捨てて、最悪の「言葉」を重んじる。「実感」ではなく「観念」で生きようとする。人間はそれで「善」を行なつてゐるつもりで、その実「罪」を犯してゐる。それが神には何とももどかしいのです。
「最悪の『言葉』」と言つても、聖典の言葉が間違つてゐるといふ意味ではない。その言葉は多くの場合、私を導く力になるでせう。しかし、そればかりを見つめれば、それに従はうとするときに私が体験する実感を見逃してしまふ危険がある。それに警戒する必要があるのです。
例へば、「聖典の言葉」が「かうすべきだ」「これが正しい」と教へてくれてゐるのに、私はなかなかその通りにできない。そのときに、私の中にどんな思ひが湧くか。その思ひの中に神のメッセージがある。だからそれを読み取ることが重要だと思へるのです。
「そんなことまでは、私にはできない」
「こんな私は神から見捨てられるかもしれない」
「こゝまでできただけでも、いゝのではないか」
さういふさまざまな思ひはどれも、私の「現在位置」を表してゐます。
「それが今のあなたの偽りない姿だ。それを私は責めない。むしろ愛してゐる。こゝまでたどり着いたあなたの足取りは、決して無駄ではない。あなたが今ゐる場所に、私もゐる」
と神はメッセージを伝へてゐるのではないか。
そんなメッセージは聖典の中にはない。今の私の体験の中でだけ聞き取れるのです。

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