静止画を動画にする人生
アニメーションといふのは、絵が本当に動いてゐるのではない。1秒間に何十枚といふ静止画を連続して見せることで、それらがつながり、あたかも動いてゐるやうに見せる。
静止画と静止画とをつないでゐるのは、見る人の脳です。つまり、脳が静止画を動画に変換する役割をしてゐる。
試しに下の図を見てください。『考えの整頓』(佐藤雅彦)所載の図を模したものです。

5枚の図ですが、これらを上から順番に見たとき、あなたの中にはどんな解釈が生まれるでせうか。
解釈の一例を示せば、魚の親子のやうに見えます。大きい三角が親で、小さいのがこども。最初は親のあとをついて泳いでゐたこどもが途中で止まつてしまふ。心配して引き返してきた親が説得すると、こどもは再びついて泳ぎ始めた…。
もちろんこの他にも、人によつてニュアンスの違ふ解釈があるでせう。ただこゝで面白いことが分かるのです。
一枚一枚の絵は、特定の意味を持つてゐない。ただ2つの大きさの違ふ三角形が並んでゐるだけです。ところがこれらの絵が並んで示されると、それを見た人はその人なりの「物語(ストーリー)」を創り上げてしまふ。
これはまさに、数十枚の静止画を連続してみると意識的な努力なしにそれを動画に創り上げてしまふ能力と同じものです。
これを我々の日常に当てはめてみませう。
我々が日々体験する出来事の一つ一つは、あたかも静止画のやうなものです。しかしいくつかの出来事が連続して起こると、その出来事と出来事の間をつなぐ「物語」を創らずにはおれない。
例へば、朝、夫婦喧嘩をして、気まづい気分で夫を送り出した。すると、その日の夕方、夫が仕事場で事故を起こし、ケガをした。
朝の出来事と夕方の出来事はそれぞれ別個のものなのですが、我々はついその二つをつなげる物語を創る。上の文の「すると」も、まさにそれを表してゐます。朝の出来事が原因となつて夕方の出来事が起こつたのではないか。さういふ「因果の物語」をほとんど無意識の裡に創つてしまふのです。
現実世界で現象してゐるのは、一つ一つの単独の出来事にすぎない。しかし我々はたいてい、「あれ」と「これ」とを自分なりにつなげてオリジナルの「物語」を創らずにはおれないのです。
さうすると、我々は現実には静止画のやうな出来事が次々に起こる世界に生きてゐながら、意識のレベルでは静止画がつながつた動画の世界に生きてゐる。どちらが私の本当の人生かと考へれば、後者のやうな気がします。
私の人生は好調なのか不調なのか。幸福なのか不幸なのか。それは現実の出来事によつてではなく、そこから私が創り出す「物語」に左右される。
さうであるなら、できるだけ良質な「物語」を創り出すことが、私の人生にとつて得策だと思へる。そのためには、何が助けになるでせうか。

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