枠組みを広げる
『プチ哲学』(佐藤雅彦)にある1枚の絵を真似て書いてみました。
この絵を見ると、左側の意地悪なカエルが右側のカエルを池に突き落とさうとしてゐる場面に見えますね。ところがこれは全体の絵の一部分で、全体を見ると実はこんな場面なのです。

全体が分かると、左側のカエルは決して意地悪な奴ではなく、むしろ反対に、頭上から落下する果物に当たつて怪我をしないやうに、とつさに押して助けようとしてゐる状況だと分かる。つまり、見る「枠組み」を変へると、同じ行為がまつたく違つて見えるといふことです。

全体から見ると、赤線の枠組みだけを見てゐる人は視野が狭い。その枠組みは、もしかしたら本当の出来事の一部かもしれない。さういふヒントを与へてくれる、まさに「プチ哲学」の一つだと言へます。
ところが、もう少し考へてみると、この絵はまだ本当の全体ではないかもしれない。

全体だと思つた絵は、実のところ、青線の枠組みだといふ可能性もあります。さうすると、青線で見てゐる人もなお視野が狭いといふことになる。
青線の外側まで視野を広げれば、
「なぜ、このタイミングで果物が落ちたのか」
といふ理由が分かるかもしれない。
もしかして、鳥が果物をつついて食べようとしたところ果物は落ちて、鳥は飛んで逃げたのかもしれない、とか。
これは意外と重要な問題を提起してくれる「プチ哲学」です。
「私は自分の枠組みをどこまで広げれば、そのものごとの本当の姿を把握したと言へるのか」
例へば、誰かが不慮の事故、あるいは不治の病で亡くなつたとします。
残された側の枠組みで考へると、
「どうしてこんな可哀さうなことが起こるのか。やりたいことがもつとあつただらうに」
といふ悲しみが先立つでせう。
ところがそれは赤線の枠組みかもしれない。
「もう少し、青線まで枠組みを広げてみなさい。我々には体で生きる世界だけがあるのではない。体は死んでも、霊的に生きる、もつと素晴らしい世界がある」
さういふ観点もありえます。
しかしさらに考へれば、その青線さへ絵の全体ではないかもしれない。その人がなぜそのとき、その理由で死ななければならなかつたのか。その理由が、もしかしたら青線の枠組みのさらに外側にはあるかもしれない。
我々は往々にして、赤線の枠組みで見て、
「私がかう判断する、その判断は正しい」
と思ひ込む。
しかしそれが本当に正しいといふ保証はないのです。しかも、枠をどこまで広げていつても、「これが最大の枠だ」と言へる限度はあるのかないのか。それは私には分からない。
さう考へると、「私は正しい」といふことは暫定的には言へたとしても、その判断に拘るのは賢明とは言へない。「私は正しい」といふ結論はつねに保留しておき、枠を広げることに注力するのがよささうに思へます。

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