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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

養老>茂木>堀江

2022/07/12
世の中を看る 0
養老孟司 茂木健一郎
3人

タイトルの不等号は能力の程度を表してゐるのではありません。あるいは、影響力の大小でもない。

「自分が変はる」か「世の中を変へる」かを天秤にかけたとき、前者を優先する順序を示してゐます。この順序は茂木健一郎さん自身が分析したもので、その話を聞いて、私も面白い観点だなと思つたのです。

養老先生は『バカの壁』が400万部以上の超ベストセラーになつた人で、その後も弛まずベストセラーを出し続けておられる。講演も多い。Youtubeにも動画が継続的にアップされてゐる。

現代の思想家としても相当に社会的な影響力がある人に違ひないが、本人自身は世の中を変へようなどとはまつたく思つてゐない。世の中を変へるくらゐなら、自分が変はるほうがよほど手っ取り早いと思つてゐるのです。

反対に堀江貴文さんは自分の能力の及ぶ限り、世の中をどんどん変へたいと思つてゐる。買へるものなら球団も買はうとするし、選挙にも出る。今は自前のロケットを飛ばさうとしてゐる。非常に精力的です。

茂木さんは、その二人の中間だと自己分析する。結構頑固で、周りを見て自分の意見を変へるやうな人ではないし、世の中に対してモノ申すことも多い。しかし優先順位は、自分が変はるほうが高いと自認するのです。

「世の中を変へようとする人」と「自分が変はらうとする人」。どちらが良い悪いの話ではないのですが、私なりに見れば、前者の人のほうが圧倒的に多いのではないかと思ふ。

「世の中を変へよう」タイプの人は、
「自分には確かな分析と感性に基づいたかういふ正しい考へがある」
といふ強い思ひがあります。

正しい考へだから、それはそのまゝ世の中に適用すれば、必ず世の中のためになるはず。さういふ考へになるでせう。

しかし世の中には私の考へとは違ふ、ときには真反対の考へがいくらでもあるから、必然的に衝突が発生する。お互ひが自説を主張すれば論争になるし、ヒートアップすれば非難のし合ひになつたりもする。

かういふ情景は特に政治分野に多いやうにも思ひますが、実は我々の身近な日常にいくらでもあるのです。

例へば、夫婦喧嘩や親子喧嘩はなぜ起こるか。どちらも「自分の考へが正しい」と思ひ、それを相手に強要し、受け入れさせようとするからでせう。

考へと言つても、大それたことではない。玄関の靴の揃へ方から朝夕の挨拶の仕方まで、自分が正しいと思ふ考へがあります。しかしどんなに些細であつても、そこで譲ることはなかなか難しいのです。

譲ると自分の考への正しさを放棄することになるやうに思ふ。それは自分の正しさの敗北になるので、譲るに譲れないのです。

しかし「自分が変はることを優先する」側にゐる養老先生は、譲ることを躊躇しない人だと言へます。昨日まで「私のこの考へが正しい」と言つてゐたのを、今日になると「別の考へが正しいと言つても構はない」と譲ることができるのです。

私はそれを希望と呼ぶ。希望とは、世界が変わるのではない、自分が変わるのである。その希望を押し殺すのが、「変わらない私」、個心である。
(『養老孟司の大言論。希望とは私が変わること』養老孟司

変はる自分を認めるといふのは、定見なくころころと意見が変はるといふことではありません。自分の定見はありながらも、それに拘らない。相手を無理やり自分の考へに合はさせようとはしない。

「世の中を変へよう」とする人は、自分の考へを主張することによつて力づくで世の中を変へようとする。「自分が変はらう」とする人は、自分の考へに固執せず、自分が変はることによつて、結果的に世の中を変へることになる。養老先生はさういふ後者タイプの典型だと思ふ。

世の中には前者のやうなタイプも必要ではあるでせう。しかし長い目で見れば、あるいは人間性の本質で見れば、世の中をより大きく動かせるの後者タイプではないかと思ふ。

身近な人間関係でも、相手を変へようとする人よりも自分が変はらうとする人が、良好な関係を作れるのではないでせうか。



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