実質的に堕落性を脱ぐ(その3)
シリーズ記事の3回目です。
カインは弟のアベルと一緒に神に供へ物をしたのに、自分のものだけが拒否されてしまふ。
そのときカインの心の中には、
「私だけ神から差別された」
といふ被害者意識が生まれます。
被害者意識が嫉妬心を生み、さらに憎しみへと発展する。これがふつうでせう。誰でもさうなつて当然に思へる。実際、カインもさうなつて、遂には弟を殴り殺してしまつたのです。
しかし、かういふ難しい事態に直面したカインに、神は一艘の小さな助け舟を出してゐるのです。
なぜあなたは憤るのか。なぜ顔を伏せるのか。正しいことをしているのなら、顔をあげたらいいでしょう。 (創世記4:6-7) |
この神のアドバイスを意訳すれば、
「あなたは自分の外で起こつてゐることを見ずに、あなたの内で起こつてゐることに目を向けなさい。さうすれば、問題の真相が見えてくるだらう」
といふことです。
そこでこのアドバイスに従つてみませう。
自分の内にはアベルへの嫉妬心が渦巻いてゐる。そこで、
「私の嫉妬心は一体どこから出てくるのだらう?」
と自問してみます。
すると
「私は神から差別された。アベルだけが優遇され、私は割りを食つてゐる。だから嫉妬するのだ」
といふ答へが返つてくる。
そこでさらに自問してみる。
「私は本当に差別されたのか。差別されたと私が思つただけではないのか。もしさうなら、なぜ私はこの事態を差別だと思つたのだらう?」
この疑問を突き詰めていくと、自分の中にかういふ事態を「差別」と感じてしまふ心性があることに気がつく。そしてそのとき、一つの思ひがけない考へが閃きます。
「私の中に『差別された』といふ被害者意識が生まれるやうな事態が意図的に起こされたのではないか」
誰が引き起こしたのか。神だと考へてもいゝ。神が意図的にカインの中に「差別された」といふ被害者意識が出てくるやうに仕向けた上で、「顔をあげて見よ」と助け船を出したのです。
「自分の心性がどうなつてゐるのか。どこに課題があり、どこを直せばいゝのか。それに気づきなさい」
といふことです。
こゝに気がついたとき、カインは自分の胸の内に初めて
「感謝」
といふ思ひが湧くのを感じます。
「さうだつたのか。神が私の供へ物を受け取らなかつたのは、私が自分の心性、私が父母から受け継ぎ、持て余して苦悶してゐる堕落性に気づかせるためだつたのか」
つまり、カインにとつて「差別」だと感じられた事態は、実のところ、カインに自分の堕落性に気づかせ、彼を堕落性から解放するために起こされた「ありがたい事態」だつたのです。
カインがこのことに気づけば、事態は次の段階へと動き始めます。
カインの目には、アベルがそれまでとは違つて見えてきます。あいつだけが優遇されて生意気だと思つてゐたのに、
「さう言へば、あいつも陰でコツコツと努力してゐたよなあ」
といふやうなことが思ひ出されてくるのです。
「結局、あいつのほうが心根が純粋で、確かに神に愛される生活をしてるぢやないか」
とさへ思へてきたりする。
差別されたといふ被害者意識から解放されると、相手をあるがまゝに見ることができるやうになるのです。
結局、「あるがまゝに見る」といふことが重要です。
事態は決して拒絶せず、ともかく事実としてあるがまゝに受け入れる。さうした上で、その事態に対して湧いてくる自分の思ひ(「差別だ」「おかしい」「理不尽だ」…)をその事態と切り離して見るのです。すると、その思ひこそが自分の蕩減的課題を寸分違はず表していることが明瞭になつてきます。
蕩減条件を立てるとは、「差別だ」と思つてゐたその否定的な思ひを「感謝」に変へることだと言ふこともできると思ふ。そしてさうすると確かに、自分の堕落性は脱げていくのです。
以上はカインが直面した事態を実例に考へてきたのですが、まつたく同様のことが我々の日常のあらゆる場面で適用されます。

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