実質的に堕落性を脱ぐ(その2)
前回の記事からの続きです。
カインの供へ物は神に拒否され、アベルのものだけが受け入れられた。それは事実としませう。しかし、アベルだけが優遇され、カインは差別されたといふのは事実でせうか。
私はこれまで、これも事実だと思つてきたのです。仮に言ふに言へない理由が神にあつたとしても、差別は確かにあつた。その事実を認めた上で、カインは愛の減少感や嫉妬を神の立場に立つて克服しなければならない。さういふ理解でした。
ところがカインが外を見ずに自分の内をよくよく見れば、差別といふ事実はなかつたといふことに気がつくはずなのです。それならこのとき、一体何が起こつてゐたのでせうか。
差別はカインの外ではなく、彼の内部で起こつてゐたのです。
前の記事で、
「嫉妬させる人がゐるから、私が嫉妬するのではない。私が嫉妬するから、その人が『私を嫉妬させる人』になる」
と書きました。
それと同じ理屈で、差別する人がゐるから私が差別に苦しむのではない。私が差別されたと思ふから、その人が「私を差別する人」になるのです。
これはちよつと強引な理屈のやうに感じられるかもしれない。しかし、こゝが重要なところです。
弟のものは取られて、自分のものは取られなかつた。これは事実です。しかしそれが差別だといふのは、カインの心の中で生じた観念なのです。
つまり、一つの事実を「差別」だと思へば、その事実はその人にとつて「差別」になる。しかしその同じ事実を「差別」だと思はなければ、「差別」にはならないのです。
そのことにもしカインが気づけば、次にかういふ自問が生まれます。
「この事実を、私はなぜ『差別』だと感じるのだらうか」
なぜかは明瞭に分からないとしても、こゝに自分の「蕩減的課題」があるといふことに思ひ至ります。つまり、このやうな事実に直面したのは、自分の「蕩減的課題」に気づくためであつた。
すると、自分のすべきことが見えてきます。
このやうな事実を「差別」と思はない自分になれば、この問題の少なくとも半分は解決する。なぜなら、「差別」だと思はなければ、そこから嫉妬心も生まれてこないからです。
嫉妬心が生まれなければ、どうなるか。事態をあるがまゝに受け入れ、的確な対応を選択することができます。
例へば、成功したアベルのやり方を真似てみることもできる。あるいは、自分の供へ物をアベルに捧げてみてもらふといふ選択もありえます。
かうして神がカインの供へ物も受け取ることができれば、外的にも蕩減条件が立つて、復帰摂理をクリアする。
この一連のプロセスの一体どこで蕩減的課題が本質的に克服されたのか。それはカインの心の中でせう。
あの難しい事態に直面しながら、それをカインは「差別」だと思はなかつた。それによつて、カインは神をもアベルをも「差別する悪人」にせずに済んだのです。
さて、このやうになれば、カインは神の摂理に貢献した第一の「功労者」と言へます。いや、実は功労者どころではない。気がついてみれば、事態をあるがまゝに見て「差別」だと思はないカインからは、堕落性がきれいに浄化されてゐるのではないですか。
ところがこの結論に至るまでの段階で、一つ素通りしたところがあります。どうしたら「差別と思はない自分」になれるのかといふことです。実はこゝが最も肝心な点であると同時に、最も難しい点でもあるのです。
それを次の記事で考へてみませう。

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