実質的に堕落性を脱ぐ(その1)
「一霊四魂」説では、神に直通する「直霊(なおひ)」が正常に働いてこそ「四魂」が正常に成長すると見ます。ところがその「直霊」が何らかの理由で正常に働かなくなると「曲霊(まがひ)」になる。すると「四魂」も狂つてくるといふのです。
元々「真つ直ぐ」であつたものが「曲がつて」しまつた。「直霊」「曲霊」とはいかにも絶妙な命名です。
ところがそれなら、なぜ曲がつてしまつたのか。さらには、どうしたら元の真つ直ぐに戻せるか。これが問題です。
『原理講論』は曲がつてしまつた理由といきさつを「堕落論」で説き、元に戻す方法を「復帰原理」で説いてゐます。こゝではこの説に沿ひながら、日常的に活用できる術を探つてみようと思ひます。
まづ最初に、復帰原理の原型ともいふべき「カインとアベルの物語」を見てみませう。
カインはアダム・エバの長男であり、アベルは次男です。この二人がともに神に供へ物を捧げたとき、アベルのものは喜ばれ、カインのものは顧みられなかつた。そこでカインは弟に嫉妬し、野原に連れ出して殴り殺した。
この短い神話的な物語の中に復帰原理があるとみるのです。
もし、… カインがアベルに従順に屈伏することによって「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てたならば、… メシヤを迎え … たはずであった。(「アダムの家庭を中心とする復帰摂理」) |
こゝでカインが取るべき行動は、「アベルに従順に屈伏すること」であつた。これが堕落性を脱ぐ(曲霊を直霊に戻す)ための要諦だといふのです。
なぜこのやうな原理が出てくるのか。
それは彼の父の代において、天使長(兄の立場)がアダム(弟の立場)に嫉妬し、従順に屈伏すべきところを逆に主管してしまつた。それで堕落性が生じたので、息子のカインはそれを逆にやり直すことによつて創造本性に戻る(条件を立てる)立場にあつたのです。
しかし実際には、カインも弟への嫉妬を克服できず、殺してしまつた。これではカインは到底創造本性を取り戻すことなどできず、復帰摂理は失敗に帰すことになつた。そしてこの原則は、こんにちの我々すべてに当てはまるといふのです。
「アベルに従順に屈伏することによつて堕落性を脱ぐ(曲霊から直霊に戻る)」
これをよく考へてみる必要があります。
「従順に屈伏する」と言へば、必ず対人関係が前提となります。私をカインの立場に立てて考へてみると、私が堕落性を脱ぐためにはアベルに当たる誰かが必要であり、その人に「従順に屈伏する」といふプロセスを経なければならない。
それで私はアベルを探すことになり、その人の前に「従順に屈伏する」道を行かうとする。ところがこゝに、一つの大きな問題があるのです。
私の中には嫉妬がある。従順に屈伏しようとすればこの嫉妬を解決しなければならないのに、これが容易ではない。どうしたらいゝのか。
復帰原理ではヒントを与へてくれてゐます。
「神と同じ立場に立てばよい」
といふのです。
なるほど、それはもつともかも知れない。神なら嫉妬はしないであらうし、万民を等しく愛するでせう。しかし私(カイン)はそれができずに苦悶してゐるのです。
堕落性に苦しんでゐる人に
「堕落性を克服すればいゝのだ」
と諭しているやうに思へます。
そこでもう一つ別のヒントを探してみます。
我々の個体の場合を考えてみると、善を指向する心はアベルの立場であり、罪の律法に仕える体はカインの立場である。(同上) |
私の外にアベルがゐると思ふと、私の目は外に向かふ。しかし自分の中にアベルがゐると考へれば、視線は内に向かふことになります。カインとアベルの関係は何よりもまづ、私自身の中で成立することになるのです。
そこで、かう考へます。
「私の嫉妬は一体どこから出てくるのだらう?」
それまでカインはアベルと自分を比較してゐるので、
「私は神に差別された。アベルだけが優遇されてゐる」
といふ思ひに満たされてゐた。
その状態では、自分の中に嫉妬や妬み、不満が出てくるのは当然と思ひ込みます。しかし比較をやめて、自分の意識を見つめてみると、当然ではないことに気がつくのです。
嫉妬の思ひが出てくるのは、アベルのせいではない。神のせいでも勿論ない。カイン自身のせいだと気がつきます。
つまり、嫉妬させる人がゐるから私が嫉妬するのではない。私が嫉妬するから、その人が「私を嫉妬させる人」になる。順序が逆だ。原因は私にあるのです。
さて、そのことにカインが気づけば、そのあと、彼は自分の嫉妬心を克服する道を確実に見出し始める。そのプロセスは、次の記事で書くことにします。

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