「ことば」と「実体」
そして言は肉体となり、私たちのうちに宿った。 (「ヨハネによる福音書1:14) 彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、創造本性を完成した、み言の「完成実体」となり得たはずであった。 (『原理講論』緒論) |
福音書で「言」と言ひ、原理講論で「み言」といふ、その「ことば」とは一体何でせうか。そして、その「ことば」が「完成実体」になるとは、一体どういふことでせうか。
「ことば」と「実体」との関係。これが今もつて、私には明瞭に掴み切れないでゐます。
ところが、あれこれ考へてゐるとき、
「『ことば』は二次元であり、『実体』は三次元である」
といふイメージが湧いてきたのです。
これでもまだ十分に二つの関係を説明し切ることができるとは言へないものの、ともかくこのイメージの意味を解説してみようと思ひます。

こゝに三次元の球体があるとします。この球体が二次元の紙をゆつくり上から下へ通過していくとどうなるか。紙には最初「点」が現れ、それが次第に「円形」として広がつていき、極限まで広がつたあとはまた次第に小さくなり、最後にはまた一つの「点」となり、遂にはその「点」も消える。
この喩へで言ふところの「球体」が「実体」であり、紙に現れた「円形」が「ことば」です。これをもう少し具体的に考へてみませう。
イエス様やお釈迦様のやうな聖人がおられます。この世に生きておられるときは「実体」です。その方が多くの弟子や求道者に請われて教へを語る。語るときは「ことば」です。
聖人が語る「ことば」は貴重で有益ではあるものの、聖人その人の全体ではない。それはちやうど、「球体」が紙を通過するとき、そこに出現する「円形」のやうなものです。「円形」はもとの「球体」の面影を反映し、もとの形を髣髴とはさせる。しかしどこまでも「円形」は「球体」そのものではない。
聖人の「実体」はもはやない。しかしその方が遺した「ことば」は聖書として、あるいはお経として、今でも我々が触れることができます。その「ことば」を通して、聖人の「実体」を想像することはできるのです。
聖人の「ことば」を「真理」と言つたり「み言葉」と呼んだりする。平凡なふつうの人の「ことば」とは違ふといふ意味合ひがあります。しかしそれでも、それは三次元の聖人その人を二次元に写し取つたものに過ぎないのです。
「真理」といふ言ひ方をするなら、「真理」とは聖人その人のことであり、「み言葉」は「真理」の幻影のやうなものです。
それなら、聖人が「ことば」を語る目的は何か。「真理」そのものである自分自身を伝達するための主要な方法が「ことば」です。そのとき聖人は伝達するために、次元を一旦一つ落とす。
聖人の道に従はうとする人は、二次元に落とされた「ことば」に触れて吟味する。そして今度は、それを再び三次元に戻さなくてはならない。それが聖人といふ「実体」に似た者になつていくプロセスです。
「み言葉」(二次元)は素晴らしいものですが、「実体」(三次元)が持つてゐる情報のうちのごく一部が転写されてゐるだけです。しかも、一度転写された「み言葉」は、そのときの形に固定されたまゝ、永遠に変はらない。「実体」は時々刻々、変化成長してやまないのに、二次元的に表現された「ことば」は変化も成長もしないのです。
だから我々がいくら多くの「み言葉」を学んで記憶したとしても、それがそのまゝ「実体」になるわけではない。私が以前の記事「渡し船の権三」や「馬之助の放蕩」「何似生(どんなもんぢゃい)」などで考へてみたかつたのは、そのことです。
良寛さんは、お経といふもの(「ことば」)がどれほど修行者を縛つてゐるかといふことを痛感してゐたと思ふ。
「重要なのは、『ことば』を尊ぶことではなく、『ことば』を再び『実体』に戻すことぢやよ」
と言ひたかつたのだと思ふのです。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
恩義を売らない 2021/03/29
-
「昨日の私=今日の私」は本当か 2022/11/10
-
「私」を作つたのは誰か 2022/02/19
-
生命の動的平衡 2021/08/31
-
スポンサーサイト