「断捨離」の行法哲学
やましたひでこさんが提唱し始めた「断捨離」は、ヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」から着想を得たのださうです。
目に見えない「心」が「行動」に現れ、「住まひ」に現れる。だから逆に、「住まひ」を整へることを通して「心」を整へよう。さう考へるので、単に「不要なものを捨てよう」といふことではないやうです。
断捨離の学習者からやましたさんに、かういふ相談がきたさうです。(『キッチンの断捨離』やましたひでこ)
「家族にモノを捨てさせるには、どうしたらいゝでせうか?」
相談者の女性自身は断捨離を学んで、不要なものは捨てようと考へてゐる。しかし学んでゐない家族は、当然のことながら、不要なものを買つてくるし、使はないものを捨てようとしない。何とか断捨離の哲学に従はせたいと思ふのです。
人生相談の回答者がよく言ふことですが、相談の大半は自分のことではない。他者をどうしたら自分の思ひ通りに変へられるかといふ悩みなのです。上の相談もまさにその一例ですね。
やましたさんは、この相談者に視点の転換を促します。
「あなたが管理してゐるキッチンは、家族が思はず入つて手伝ひや協力をしたくなるやうな空間になつてゐますか?」
人を動かさうとする前に、人が動きたくなるやうな環境設定になつてゐるか。そこに目を向けてみようといふわけです。
そのキッチンはそもそも、自分自身が居たいと思ふ空間になつてゐるか。
「仕事が終はつた。さあ、これから帰つてご飯を作るのが楽しみだ」
と思へるやうなキッチンだらうか。
それとも、
「あのキッチンでまた夕食作りか。何だか嫌だな」
といふ思ひが先立つキッチンだらうか。
相談者のキッチンをやましたさんが訪ねてみると、そこにはジップ付きの保存袋が洗つて干してあつた。
ただでさへキッチンに立つのが煩はしいのに、なぜこんな手間をわざわざかけてゐるのか。それに第一、この物干し光景は美しくない。
これを見てやましたさんは、
「わづかな節約をしようとして、逆に時間と空間とエネルギーを浪費してゐる」
と直感し、まづ自分自身が居て心地よい空間を作るための断捨離を勧めたのです。
居心地の良いキッチン空間。それを作れば、まづ自分自身がそこにゐたくなる。料理を作るのが楽しくなる。お母さんが楽しく料理を作つてゐれば、家族がつい覗いてみたくなる。巧まずして、家族をキッチンの協力者、断捨離の共同実行者にしていくことができるのです。
やましたさんが話を聞いてみると、この女性には心理的なジレンマも抱へてゐたことが分かります。
「協力して」
と頼みたいのに、頼む勇気が出ない。
「頼んでも、してくれないに違ひない」
とがつかりする自分を怖れてゐるのです。
だから「頼む」以外の方法で何か家族を動かす方法はないだらうか。それが相談の隠れた意図だつたのでせう。
このやうなやり取りと分析を聞くと、断捨離とは確かに単なる片付け指南ではない。「心」と「もの」とは深く関連し合つてゐることが分かります。「心」が変はれば「もの」の扱ひ方が変はるし、「もの」の扱ひ方から「心」の有りやうが見えてくる。
目に見える「もの」は目に見えない「心」を正確に把握するためのツールです。
「どうして家族はキッチンに喜んで入つてくれないんだらう?」
「どうして私は一度使ったジップ袋を断捨離しなかつたんだらう?」
さういふ目の前の現実を、我々はあまり自覚的に意識することがないのです。しかしそれを自問してみると、自分の心の内でどんな思ひが動いてゐるのか、気がつくことがある。
「自分自身が嫌々やつてゐることに、家族を無理やり引き込まうとしてゐた」
「わづかばかりの節約よりも、居心地の良いきれいなキッチンであるほうが、私にとつてもつと価値がある」
「不要なものを手放したら、その空いたところに、より価値のあるものが入つてくる」
さういふことに気がつくと、我ながらハッとしますね。

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