正分合作用で神になる
「私には親友と呼べる人がゐません。どうしたら、どんなことでもお互ひに話し合へる生涯の親友を持つことができるでせうか」
さういふ相談に、大愚和尚が
「親友といふより、勝友(しょうゆう)を持つことをお勧めします」
と答へてゐます。
勝友といふのは仏教の言葉で、
「優れた友、自分の徳を進める善い友」
を言ふやうです。
勝友はいつも一緒にゐる必要がない。相手が私をどう思つてゐるか、それも本質的な問題ではない。直接に会つたことがない人であつてもいゝ。
それに対して「親友」といふのはよいもののやうでありながら、厄介なこともある。
こちらが「彼は私の親友だ」と思つたとしても、相手は私のことをさう思つてゐないかもしれない。一方的に「親友だ」と思つてゐた人が、私以上に他の誰かを大切に思つてゐることが分かれば、裏切られたやうな気持ちになるでせう。
それに、今私が彼を「親友」と思つてゐたとしても、その思ひが永続するとは限らない。自分の生活が変はり、相手の生活も変はれば、もつと大切だと感じる相手が現れることはありえるでせう。
だから「親友」よりも「勝友」がいゝ。それにも一理ある。
しかし我々が「親友をほしい」と思ふその心理には、何か我々人間としての本質に深く根ざすものがあるやうに思へます。
『原理講論』の「創造原理」に「正分合作用」といふ概念が出てきます。
このように分立された主体と対象が、再び万有原力により、相対基準を造成して授受作用すれば、これらは再び、合性一体化して、神のまた一つの対象となる。 |
主体と対象、この二つのものが一つになりたいといふ根源的な願望は、「正分合作用」といふ宇宙の構造に由来すると言へます。そして一つになりたいと願ふその目的は「神のまた一つの対象」になることだと言ふのです。
しかし私は「神の対象になる」といふより、
「神になる」
と言つていゝのではないかと思ふ。
つまり、私が誰か他の人(あるいは「もの」でも)と一つになりたいと願ふのは、そのことで「私が神になりたい」からではないかと思ふのです。
神ご自身は二性性相だといふでせう。ところが神にとつて、気がついてみると、自分は二性性相であつた。「どうして、どのやうにして自分が二性性相の神になつたのだらう」といふことが分からない。
多分、二性が別々に存在するより、それらが一つになつたほうが喜びが大きいから一つになつたに違ひない。しかしその過程自体を体験したことがない。
そこで神はそれを一度体験してみようと、創造を始め、被造物をすべて二つに分けておいた。そしてそれらがどういふ過程を通して一つになるか、さらにそのときにどんな喜びの刺激が爆発するかを見ようと考へた。
そのやうに造られた我々は、正分合作用によつて一つになることが宿命づけられてゐます。そして一つにならうとすれば、そのときに確かに大きな喜びが生じるのを体験する。
その喜びは一体何かと考へると、二つのものが一つになるときの喜びを体験して見たかつた神の喜びであり、それはつまり、神が神になるときの喜びそのものなのです。だから、正分合作用で我々は「神の対象」になるのではなく「神そのもの」になる。さう考へたほうが、より神の実感に近いのではないかと思ふのです。
「親友を持ちたい。その親友と一つになりたい」
といふのは、さういふ宇宙の基本構造から来る願望なので、抑へることができない。
しかし現実は、最初に見た通り、「親友を持つ」ことも「親友であり続ける」ことも、決して容易ではない。
私自身は、親友は夫婦関係に限つていゝのではないかと思ふ。それ以外の関係は勝友を基準に結ぶ。親友は神になる喜びであり、勝友は自己成長する喜びです。

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