何似生(どんなもんぢやい)
何もそうどなることはあるまい。実のところ、こういう何も書いてない巻物こそが真のお経なのだ。だが、中国の人たちがあまりに愚かで無知であるために、このことを信じられずにいるのがわたしにはわかるので、中国の人たちには何か文字が書いてある巻物を与えてやるほかないということなのさ。 (『西遊記』) |
有名な『西遊記』の中の一節。お釈迦様が三蔵法師一行に答へた言葉です。
怒鳴つたのは従者の一人、孫悟空。万難を経てやつとはるばる中国からお経をもらひに来たといふのに、まがい物の白紙の巻物をくれるとは、一体どういふつもりか。何も書いてないお経に何の価値があるか。さう言つて、お釈迦様に詰め寄るのです。
それに対してお釈迦様は、
「何も書いてない巻物こそが真のお経なのだ」
と仰る。
もちろんこのやり取りはフィクションでせうが、いかにも仏教独特の逆説のやうに思へます。
臨済宗の開祖臨済は
「お経に何の価値があるか」
と言つて、お経で自分のけつを拭いたといふやうな逸話もある。
その同じ臨済宗の一休和尚も開祖の所業に倣ひ、一本の見事なウンチをお経にくるんで「どうだ」と言ふ。さういふ場面がアニメ「オトナの一休さん」に出てきます。
当然周囲の顰蹙を買ふが、一休は平然として、
「お経がありがたいと言つた時点で、お経に縛られる。無縄自縛だ」
と言ひ放つ。
また仏教には、自分が悟りを得たといふ証明に師匠が弟子に与へる「印可状」といふものがある。一休の師である華叟(かそう)は一休に印可状を出すが、一休はそれを焼き捨てたと言はれる。
「印可状なぞがあると、杭に繋がれたロバのやうに不自由極まりない。悟りは人から認めてもらふものではない」
といふ理屈です。
彼の遺した『自戒集』には
「わしの死後、一休の印可状を受けたといふ者がゐたら、罪に問ふべし」
とまで記してゐる。
こういふ一連の行状を見ると、「白紙のお経こそ真のお経」といふお釈迦様の言葉に通じるものがあるやうに感じられます。
お経は仏道修行の導き手ではあるでせう。しかしそれに縛られるやうになれば、お経は却つて足かせにもなりえる。
白紙のお経をどう解釈すればいゝでせうか。
お経にはもともと文字が書いてある。修行を目指す人はその文字を読み、それを自分自身に書き移さねばならない。全部書き移せば、お経の文字は消えて白紙になるが、その中身は修業を実らせた人に刻印されたので、永遠になくならない。
それは謂はば、「人がお経の実体になる」といふことです。
これもアニメの一場面ですが、一休がある僧とストリート問答を繰り広げる。
僧が
「市中に陰、ありや否や」
と一休に問ふ。
「俗なる町中に、悟りを開いた聖人がゐるかどうか」
と言ふのです。
悟りを得るには俗世間を離れ、人気のない山奥に潜んで厳しく修業を積まねばならないといふ宗教的な常識がある。それで、一般世間で暮らしながら悟ることはできまいと問うてゐるのです。
それに対しての一休の返答。
「何似生(かじせい)!」
平たく言へば、「どんなもんぢやい」といふやうな意味です。
一休は、
「どんなもんぢやい。この俺を見ろ。市中の陰がまさにこゝにゐるではないか。市中と山奥を区別する者に悟りなど開けるか」
といふ、大胆な返答なのです。
下手をすれば傲慢としか見えないが、方向は間違つてゐないと思へます。

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