fc2ブログ
line-height:1.2;

「しい」を変へる

kitasendo
魂を磨く

輪廻思想に親和性のある人は
「魂を磨く」
といふ言ひ方をすることがよくあります。

「何度も繰り返し生まれ変はつて生きる、その究極的な目的は魂を磨くことである」
と言ふのです。

「魂を磨く」とは、どういふことでせうか。

「魂」とは何か。「磨く」とはどうすることか。磨けば魂はどんな姿になつていくのか。そのことについて、復活論の観点を参考にしながら、できるだけクリアにしてみようと思ひます。

「魂」はふつうには「たましい」と読む。イメージは具体的に描きにくいが、何となく霊的なものだと考へ、肉身とは違つて不死不滅ではないかと思つてゐます。

しかし「魂」の語義を紐解くと、これは「たま」と「しい」の合成語なのです。「たま」は丁寧に言ふと「みたま」であり、これは確かに不死不滅の霊的な実体と言つていゝ。「霊人体」と呼ぶこともあります。

一方の「しい」は「嬉しい」「悲しい」の「しい」であり、「感情」とか「思ひ」「喜怒哀楽」などを指します。我々が肉身をもつて、様々な人や物、出来事に出会ふとき、私の中に生じる心の動きです。「しい」は「肉心」に近いものと思へます。

このやうに分けて考へてみると、「たま」は「しい」に刺激を受ける。あるいは逆に、「たま」は「しい」を使つて形を作つたり、行動に移したりする。

日々の生活の中で、心は「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「悔しい」「腹立たしい」など、さまざまな「しい」を体験する。それらの体験のすべてが「たま」にエネルギーとして供給される。

そのとき、ある「しい」は栄養素となり、ある「しい」は毒となる。栄養素は「たま」を育て、毒素は「たま」を傷つける。

さうすると、「魂を磨く」とは「しい」から「たま」へ健全で中身の濃い栄養素を送り続けることだと思はれます。それを「復活する」とも言ひ表せられる。

復活論によれば、復活とは、
「サタンの主管圏から神の愛の主管圏へと移行する過程的現象」
です。

「サタンの主管圏」と「神の愛の主管圏」とは、何がどう違ふのでせうか。「しい」が違ふのではないかと思ふ。

「悔しい」「腹立たしい」「苛立たしい」などに溢れてゐるところを「サタンの主管圏」と言ふ。一方、「嬉しい」「楽しい」「愛しい」などに満ちてゐるところを「神の愛の主管圏」と呼ぶ。

ところが、この二つの圏は別々のところにあるのではない。私自身は同じ場所、同じ環境にとどまつてゐながら、この二つの圏を移動することができるのです。

例へば、今私の目の前に一人の人がゐるとします。その人の言動に私がいちいち苛立ち、腹を立てれば、私は「サタンの主管圏」にゐる。

ところが同じその人を前にして、私の心が乱されることなく、むしろその人の言動のお蔭で自分の問題点に気づけたと思へば、「嬉しい」「ありがたい」となつて、その場はたちまち「神の愛の主管圏」に変はる。

同じ場所にゐながら、どうしたら「しい」が変はるのでせうか。

「しい」を感じる肉心は無意識につながつてゐます。そのため、自分にどんな「しい」が生まれてくるか、自分でもコントロールできない。気がついたら「しい」が出てゐるのです。

我知らず出てきた「しい」に意識が気づく。つまり、意識はいつも無意識の後追ひなのです。だからそのまゝでは、「しい」を変へることはとても難しい。無意識を変へるしかありません。

意識と無意識には、1:100万くらゐの情報量の格差があるので、力づくで立ち向かつても意識に勝ち目はない。ただ一つだけ、私がこれまでいろいろ学び実践してみて有効だと思へる方法があります。

「ありがたう」
と意識的に反応することです。

これを『原理講論』では
「甘受する」
と言つてゐます。

これが無意識のデータを書き換へるのに、最も有効で威力のある方法に思へるのです。

このことが完全にできるやうに我々は時間をかけて何度も挑戦する。そしてそれを輪廻思想なら「魂を磨く」とも言ひ、復活論なら「復活する」とも言ふのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
Admin:kitasendo