刹那主義の人生論
お釈迦様が弟子たちに
「人の一生はどれくらゐの長さだと思ふか」
とお尋ねになつたことがある。
弟子たちはそれぞれに、「30年」「50年」「70年」「120年」などと答へた。
それに対してお釈迦様は、ただ一言、
「人の一生は刹那である」
と断言されたといふのです。
これが「刹那主義」といふ言葉の本来の意味だと言ふべきでせう。
人が認識できる最短の瞬間とはどれくらゐだらう。ある人が調べたところによれば、およそ75分の1秒だといふ。すると刹那とは0.013秒といふことになるが、細かな数字が問題ではない。
「人生は、今この刹那にしかない」
といふのが、お釈迦様の真意だらうと推察します。
1996年、ハーバード大学の脳科学者ジル・ボルト・テイラーが37歳のとき、脳卒中に襲はれて左脳の機能を失つた。謂はば、右脳が左脳から解放された。そのとき、かつて経験したことのない2つの感覚を覚えたといふのです。
一つは、自分の体がこの世界に溶け出していくやうな感覚。
もう一つは、時間の感覚がなくなり、過去も未来もなくなつた。
ふだん我々は、自分といふものが世界からくつきりと切り出された存在として認識してゐます。そして、過去の体験の上に今の自分があり、今の自分の延長として未来が開けると思つてゐます。
ところが左脳が機能停止すると、自分と世界との境界線がなくなり、時間の感覚もなくなつた。これから推察すると、時間空間の認識は主として左脳が司つてゐるらしいことが分かります。
この体験を参考にすれば、お釈迦様は左脳の機能を抑制し、右脳を中心に生きてゐた方だと思はれます。どのやうにして左脳を抑制するのかは定かでないものの、仏教でいふ「悟り」とは、脳科学的には左脳と右脳の働きが限りなく0:100に近づくことだと言へるのかもしれない。
お釈迦様の言はれる「刹那主義」を考へると、過去の体験や知識が無意味になる。未来の目標も不安もなくなる。つねに刹那、0.013秒があるだけです。
刹那主義の人生論は、どう評価したらいゝでせうか。
科学は宇宙の年齢が100億年以上だと教へる。仏教は我々には数十万回の前世があると教へる。キリスト教は歴史の最後に神の審判があると教へる。そして今の自分は、これまでの人生に悔いを残しており、あと数十年払ひ続けるローンを抱へてゐる。
しかしそれらのすべてが現れるのは、今といふ刹那しかない。それは確かでせう。
宇宙の歴史がどれほど長からうと、今の私が体験してゐるのは、今息をして生きてゐるといふことだけです。過去の人生がどれほど不遇であらうと、その事実はすでに過ぎ去つてどこにもなく、あるのはただ、それを悔いてゐる今の自分だけです。
そのやうに考へると、時間のすべては「今の私の意識」に反映されて存在するだけだと思はれる。それなら、過去を悔いてゐた私が、「今」その過去を感謝に変へれば、私の人生は今この刹那に感謝にがらりと変はるのではないか。
今といふ刹那は、無限の時間を内包し、まるで魔法のやうに世界を変へる。「自分の前世はどうだつたのか」と考へる必要もないし、「最後の審判はいつ来るのだらうか」と心配する必要もない。
「今この刹那、私には感謝があるか」
これが刹那主義の眼目ではなからうか。

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