「輪廻思想と復活論」人生の目的は何か②
「『輪廻思想と復活論』人生の目的は何か①」の続きです。
■ 復活は時代的な恵沢の上に立つてなされる
後世の人間たちは、歴史の流れに従い、それ以前の預言者や義人が築きあげた心情的な基台によって、復帰摂理の時代的な恵沢をもっと受けるようになるのである。 (『原理講論』復活論) |
多くの人が神の摂理進展のために召命される。彼らが一律にその摂理的使命を果たすわけではなく、道半ばでその生涯を終へる場合も多い。それでも彼らが摂理のために精誠を尽くしたといふ心情的な基台は残るのです。
その基台が後に召命される人たちにとつて時代的な恵沢になる。つまり、後の人は前の時代の人たちが到達したその基準から出発できるといふわけです。
一方、輪廻思想によれば、人は何度も生まれ変はる。生まれ変はつたとき、前世での業(行ひ)を因として引き継ぐのです。
良い業があれば、それを土台としてさらに発展していくことができる。反対に悪い業があれば、それを清算するために人生の時間を投入せざるをえなくなる。
復活論と輪廻思想の違ひは、我々が誰の基台を受け継ぐかといふ点にある。復活論は前の時代の功労者の基台と言ひ、輪廻思想は前世の自分自身の基台と言ふ。しかし、前の基台の土台の上に乗つて人生を出発するといふ見方では一致してゐるのです。
■ 復活は神のみ言葉を信じ、実践してなされる
神の責任分担としての摂理のためのみ言がなければならないし、また、堕落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。 (同上) |
こゝで言ふ「神のみ言」とは何でせうか。
限定的な見方をすれば、時代ごとにさまざまな宗教を通して与へられる教へかもしれない。しかしもう少し広い見方をすれば、生活の中で会得する、自分の内なる良心の声と言つてもいゝでせう。
その良心の声に従つて、自分が善だと思ふものを目指し、実践努力する。さうすることで、我知らずのうちに神の摂理に沿ふといふこともあるでせう。
輪廻思想には「神の摂理」といふ明確な概念はない。しかし、たとへ何十万回でも生まれ変はりながら、いつかは輪廻の輪から解放されて「解脱」に至りたいと思ふ。そのための実践的な生活が必要です。
■ 復活は肉身生活を土台としてなされる
復帰摂理による霊人体の復活も、これまた地上の肉身生活を通じて、初めて成就されるようになっている。 (同上) |
創造原理によれば、魂(霊人体)は肉身から供給される栄養素なしには成長できない。したがつて、一旦死んで肉身を失へば、自力で復活することができないから、地上人の肉身を借り、協助することによつてともに復活するしかない。これを「再臨復活」と呼びます。
輪廻思想では、他人に頼らず自分で自分の落とし前をつけるために、人は何度でも生まれ変はる。前世で失敗しても、今世でやり直せる。逆に言へば、やり直すためには生まれ変はつて、もう一度肉身を持つ必要があるのです。
■ 復活は3段階の秩序を経てなされる
人間は成長期間の秩序的な三段階を経て完成するように創造された。それゆえに、堕落人間に対する復活摂理も、その摂理期間の秩序的な三段階を経て完成されるようになっている。 (同上) |
復活は一度にゼロから百までなされるのではない。人の成長に「幼少期」「少年期」「青年期」とあるやうに、復活も階段を1段づつあがるやうにしてなされるのです。
輪廻思想では、生まれ変はりの回数は10回や100回どころではない。数万回、数十万回といふ途方もない回数の生まれ変はりの階段をのぼると言はれる。そのやうにしながら、忍耐強く、少しづつ変はつていくのです。
★★★
このやうに復活論と輪廻思想とを比べてみると、生と死の仕組みには違ひがあるやうに見えながら、その実、共通点のあることが分かります。そして重要なことが浮かび上がつてきます。
生と死の仕組みの本質とは一体どんなものか。
それは、
「たとえ何度生まれ変はつてでも自分の魂を磨き続け、創造本然の姿にまで復活し切るやうに仕組まれてゐる」
といふことです。
つまり、日々私に起こつてくるあらゆる現象は、私の魂を磨き、復活させるための仕組みから必然的に現れる。それ以外の目的で現象が起こることはない。
このことに我々が気づき、心定めるなら、目の前の現象がまつたく違つて見えてきます。
人生の成り行きは、人によつてさまざまです。幸運に見える人生もあれば、不幸続きに見える人生もある。大金を稼ぐ人もあれば、一生お金に苦労する人もゐる。良い配偶者に出会ふ人もゐれば、意地悪な姑さんに悩む人もゐる。
しかしお金のない人が金持ちを羨む必要はまつたくない。自分にはどうしてこんなに家庭運がないのかと嘆く必要もない。
そこには必ず私の魂を磨き、復活を助けるための天の仕組みが隠されてゐるのです。その仕組みに気づくまでは、輪廻思想なら輪廻を浪費する。復活論なら復活の足踏みをする。

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