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「しか」派と「も」派

kitasendo
しかとも


心の持ち方を諭す話でよく用ゐられる「コップの水」の例へがあります。

コップに半分水が入つてゐる。

そのコップを見て、ある人は
「もう半分しか残つてない」
と思ふ。

ところが別の人は
「まだ半分も残つてゐる」
と思ふ。

入つてゐる水の量は同じなのに、人によつて「しか」と「も」といふ真反対の見方が生まれる。どちらがいゝかと言へば、賛否は分かれるかもしれない。

「しか」派は、
「現状に満足したら停滞する。つねにより上を目指すべきだ」
と言ふでせう。

一方の「も」派は、
「足るを知るべきだ。今自分が持つてゐるものに目を向ければ、感謝が生まれる」
と主張するでせう。

どちらにも一理あるやうに思へます。私自身はどちらかと言へば「も」派に近いのですが、一概には言へないので、この例へをもう少し深掘りしてみませう。

コップが自分だとすれば、その中の水の量は自分の現状を表してゐます。現状は自分の能力でもいゝし、自分の所有の量でもいゝ。能力が上がり、所有が増えるにつれて、徐々に水の量が増えていくといふことです。

さう考へれば、どちらの派にとつても、水の量は増えれば増えるだけいゝのは言ふまでもない。

「しか」派にとつては、水が10%しかないなら、早く20%になりたいと思ふ。20%になれば、何とか半分まで行かうと努力する。

10%のときから見れば半分まで行つた自分はかなり満足のいく姿のはずなのに、実際半分まで行くと、その自分に満足できない。どうしたら70%に上がり、満杯の100%行けるかと考へる。

「しか」派の人は10%のときに、満ちてゐる10%を見ないで、満ちてゐない90%を見る。そして、10%の今の自分は不幸で、残り90%が満たされるまで不幸な状態が続くのだと考へる。

努力して20%に達したらどうでせう。それでも満ちてゐない80%が残つてゐるのだから、その状態はまだ不幸であることに変はりはない。

さらに努力して努力して、もし100%に到達したらどうでせう。それでもその人は多分、
「120%にならないと幸福ではない」
と思ふのではないか。

さうすると、「しか」派といふのは、つねに「幸福である」ことを先送りにし、永遠に「不幸である」人であり続けることになる。

しかし「も」派の考へはさうではない。10%のときにも「10%も」と言ひ、20%になればやはり「20%も」と言ふべきなのです。

「も」派の人は、10%のときにその10%を見て、そこにある幸福を確認する。その確認の上で、次の20%を目指すのです。

結局のところ、「しか」派と「も」派との違ひは、かうです。

「しか」派の人は、「不幸な状態」で幸福を目指す人。
「も」派の人は、「幸福な状態」で幸福を目指す人。

だから、どうせ幸福を目指すのなら、私は「も」派でありたいと思ふのです。
 
それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。
(『原理講論』総序)

この一文も、「しか」派の立場で読めば、今この人は幸福ではないことになります。読み方を間違へてはいけないと思ふ。

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