サタンは私が創造した
堕落の動機と経路について、少し異なる視点から考へてみようと思ひます。
『原理講論』の堕落論によると、神は何よりも先に天使世界を創造され、特にその長であるルーシェルといふ大天使を重用され愛された。そして創造の最後に人間アダムとエバを最高の傑作品として創造された。
ルーシェルは最初のうちこそ人間の創造を喜んだものの、神がその2人をこよなく愛される様子を見るうち、次第に愛の減少感を覚えるやうになり、嫉妬の心が大きくなつた。
遂には、ルーシェルがエバを誘惑し始め、エバはその誘惑に乗つて愛の関係を結んだ。そしてその際に、彼女はルーシェルから不義なる性稟を受け継いだ。それを講論は4つの堕落性として分類してゐます。
この経緯説明によれば、不義な思ひは最初にルーシェルの中で芽生え、彼がエバと関係を結ぶとき、その性稟がエバに流れ込んでいつた。悪の源はルーシェル(のちにサタンと呼ばれる)であり、エバはどちらかと言ふとその被害者である。さういふニュアンスが感じられます。
それゆゑ、その後展開される神の摂理の中で、摂理を担当する人物の傍らにはつねにサタンがうづくまり、失敗の条件を見逃さず、侵入の機会を狙つてゐる。人間が何らかの不利な条件を作つてしまふと、その人は即座にサタンの侵入を受け、結果、神の摂理は挫折する。
今日においても、さうです。神の摂理を意識する人なら、つねにサタンを意識し、それに侵入の機会を与へないやう細心の注意を払はなければならない。
それで、何らかの失敗をすると、
「サタンに入られたね」
と診断することが多いのです。
このやうな『原理講論』の洞察が堕落の核心を突くものだとは思ふ。ただ、この観点が今の我々にどのやうに役立つだらうか。さういふ問題意識から、私なりに思ふところを述べてみたいと思ふのです。
堕落の動機と経路を上のやうに把握すると、悪の根源はルーシェル(サタン)にある。堕落以後、悪の主体はつねにサタンであり、独自に存在する霊的実体として私の外側にゐて、私の行動を客観的に監視してゐる。私は受け身の立場でその侵入に警戒し、怯える立場になります。
私はこゝで視点を変へ、
「神は天使を創造したが、サタンは私が創造した」
と考へたらどうだらうと思ふのです。
つまり、私がサタンの生みの親であり、かつ、サタンは別存在ではなく私と一体だと考へるのです。さう考へるメリットがいくつかあります。
私がサタンを創造したと考へることで、私はサタンの被害者ではなく、サタンの思考と行動の責任は私にある、といふことに気づきます。
「サタンに勝つ」
と言つても、それは私の外側にゐる外敵を相手に戦ふことではない。自分の内面の堕落性と闘ふのがその本質です。
外敵と戦ふのは兵士です。兵士はその敵を倒すことによつて使命を果たしますが、それによつて自分の堕落性を克服することはできない。
信仰者の信条の第一は外敵と戦つて勝つことではなく、自分の内面に残る堕落性を克服することでせう。しかしサタンを私の外部に置くと、私の目はどうしても外側に向いてしまふのです。
神は善の天使を創造されたのに、悪のサタンを創造したのは私である。そのやうに考へれば、私のすべきことはサタンと戦つて打ち負かすことではない。創造のやり直し、再創造することです。
何を再創造するか。サタンを創造してしまつた私自身を再創造するしかないでせう。そのとき私の目は、外側のサタンには向かない。サタンはおらず、ただ自分を創造し損ねた私がゐるだけです。
4つの堕落性もサタンから受け継いだものではない。私が自分の内に作り出したものです。それならこれは外敵を倒すことで消えてなくなるものではない。
敵がゐるので、「戦ふ」といふ概念が生まれる。敵がゐなくなれば、「戦ふ」といふ概念も必要なくなり、ただ「再創造」といふ概念だけでよくなります。そして「再創造」の主体は私自身なのです。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
私の人生のプロデューサーは誰か 2021/12/08
-
神様はいつ「愛の神」になるか 2018/03/05
-
二世聖書講座「預言者エリヤの戦い」 2014/08/10
-
CO2さん有難う 2010/04/12
-