fc2ブログ
line-height:1.2;

良心が歩いてゐる世界

kitasendo
正倉院

買ひ物に出かけ、車をスーパーの駐車場にとめて入り口まで歩いて行くと、明るい日差しの中、三々五々、買ひ物客が出たり入つたりしてゐる。

それを見てゐると、ふいに
「良心が歩いてゐるんだなあ」
と思つたのです。

目に見えるのは老若男女、老夫婦もいれば、若い子ども連れ家族もゐる。見た目には性別も年恰好もみな違ふものの、その本質を見ればそれぞれの良心が歩いてゐる。一瞬、そんなふうに見えたのです。

見えたあと、後づけで
「良心が歩いてゐるとは、一体どういふことだらう」
と考へてみた。

誰であつても、最善を求めてゐる。

「どう生きれば、最も幸せになるだらう」
と考へながら、努力しつゝ生きてゐる。

その生き方は人によつてまちまちであり、一つとして同じ生き方はないけれど、最善を求めてゐるといふ一点においては例外がない。それは間違ひないだらうと思へるのです。

良心が願ふ最善を見つけ出すのは容易ではあるまい。しかしそれでも、人はみな、よりよく生きようとして日々の生活を営んでゐる。

そのやうに考へれば、人が歩いてゐる姿は良心が人の姿を取つて歩いてゐるやうに見えてくる。見えても不思議はないなあと思ふのです。

ところで、そこまで考へてみると、それまで私はそのやうには見えてゐなかつたことになる。人が歩いてゐるのは、ただ人が歩いてゐるとしか見えない世界。その世界に生きてゐたのです。

ところが気がついてみると、歩いてゐるのは単なる肉体の人ではないと分かる。世界がまつたく違つて見えてくる。これは一体どういふことだらう。

世界が変はつたわけでは、多分ない。世界はそれまでと同じなのに、違ふ世界に見えるといふのは、見える世界は世界そのものではないといふことでせう。

我々は世界を見てゐるのではなく、自分の意識に見える世界を見てゐる。さうだとすると、人はそれぞれみな違ふ世界を見てゐる可能性がある。といふか、ほぼ100%さうなつてゐるに違ひない。

同じ私でも、何かに気づくことで、昨日まで見えてゐた世界が薄皮を剥がすやうに別の世界に姿を変へる。それは少し大袈裟に言へば、別の世界に生きるやうになると言つてもいゝほどです。

学生時代に読んだ岡潔博士のエッセイで、今でも忘れられないものがあります。

ある日、正倉院か何かの宝物展示会を見て回つたことがある。展示物はどれもこれも見事のなもので、大変感動し、その美に陶酔したやうな感覚で会場を出た。

その日は天気の良い日で、日が温かく降り注いでゐたとは言へ、目の前に見える境内の樹々の一本一本がみな、あまりにもまぶしく輝いて見える。展示会に入る前とはまつたく違つた景色がそこに広がつてゐたのに驚いたといふのです。

岡先生なりには、かう考へた。

「何時間もかけて国宝級展示物を一心に見てゐる内に、自分の小我が消えてしまつた。だから同じ風景がまつたく違つて見え、極楽のやうに思へたのではないか」

これはいかにも岡先生らしい、素晴らしい解釈だと思ふ。

たくさんの宝物を見てゐると、
「これはいゝが、これはだめ」
といふ、自分なりに区別・評価する心(小我)が退いていく。

そして一旦小我が停止すると、ふつうの樹木でさへ輝いて、神々しく見えるやうになる。

「どこにでもある、ふつうの木だ」
と思つてゐたものが、どつこい、この世にたつた一本しかない無限の価値をもつた木だつたことに、はつと気づく。

天才岡先生を引き合ひに出して自分の体験と並べるのはおこがましいやうですが、これもあれも、「自分なり」といふものが取れると、世界が違つて見える。これまで見えなかつた世界が見えてくる。

さういふ体験を積み重ねながら、我々はだんだんと新しい世界の住人になつていくのではないか。そんなふうに思ふのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
Admin:kitasendo