美しい宇宙はいつ生まれたか
「アプリオリ」といふ言葉は、元来ラテン語だが、18世紀の哲学者カントが自分の哲学を構築するのに使ふことで、新しい意味を持つやうになつたものです。
ラテン語の原意は「より先のものから」。カントはそれに
「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な認識構造」
といふ意味を賦与した。
これの代表的なものが、「時間」と「空間」です。
我々はふつう、「時間」も「空間」も現実世界に太古の昔からあるものだと思つてゐます。現実にあるから、我々はそれを認識する。さう思つてゐるのですが、カントはこれをひつくり返した。
我々自身に「時間」「空間」の認識構造なくして、どうして現実世界に「時間」「空間」があると認識できるか。さう考へて、カントは「時間」「空間」といふアプリオリが我々の中にあると論じたわけです。
現実をそのまゝ認識するのではない。我々がアプリオリに持つてゐる認識構造にはめ込んで現実を認識する。このとき、認識する主体を「意識」と呼んでいゝと思ひます。
この点をもう少し考へてみませう。
「因果」といふものがある。ある現象には、必ずその原因があるはずだと考へる。これもアプリオリの一つだと言つていゝでせう。
宗教も科学もこの「因果」アプリオリの上に構築されてゐます。我々の日常も「因果」によつてあらゆるものごとを認識し、判断してゐます。
腹が立てば、
「あいつがあんなことをしたからだ」
と、必ずどこかに怒りの原因を求める。
宗教によつては、何らかの災難に遭ふと、
「あなたの前世に原因がある」
と諭したりする。
前世まで原因をさかのぼらないとしても、
「何か自分に非があつて、罰が当たつたかな」
などと、つい考へたりする。
これらはすべて、ものごとの生起を「因果」といふアプリオリの枠で認識してゐるといふことです。そしてさういふ認識の仕方はアプリオリであるゆゑに、ほとんど疑ふことがない。
あらゆることは「因果」ではない。完全にアトランダムな、偶然の集合だと、そんなふうには思へない。それが事実かどうかは分からないが、少なくとも完全なる偶然の世界では、我々は安息しておられず、発狂するかもしれない。
ところで、かういふ認識構造は先験的だといふ。それはつまり、「現実」の前に「意識」が存在したと言つてもいゝのではないでせうか。我々人間は、肉体といふ「現実」を持つ前に、認識の主体である「意識」を先に持つてゐたといふことにもなります。
宇宙の年齢は100億年以上と言はれます。その悠久な歴史の最後のシーンに我々人間が登場し、脳が高度に発達して「意識」を持つに至つた。さういふふうに「時間」の概念の中では思はれますが、認識の側面から見れば、逆だとも言へる。
意識を持つた人間が現れて初めて、この大宇宙といふ現実が出現した。その宇宙は「時間」「空間」「因果」そのほか無数のアプリオリの枠内でこそ存在しえる。
例へば「美」といふアプリオリがあるとすれば、意識が生まれる前には宇宙に「美」はなかつた。しかし、意識が生まれることによつて「美しい宇宙」「美しい星雲」が初めて出現した。
人間(の意識)が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類することによって初めて、それらはお互いに、合目的的な関係を結ぶことができるのである。 さらにまた、人間(の意識)が存在することによって初めて、動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が区別でき、それらが人間を中心として、合目的的な関係を持つことができるのである。 (『原理講論』創造原理第二節) |

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