「大愚」になりたい
先日の記事「苦痛が災難になるとき」でふれた良寛和尚。その号を「大愚」と称したと書きました。
「大愚」は並みの愚かさではない。大きな愚、謂はば、大ばか者です。仏道修行をして大ばか者にならうとして、自ら「大愚」と名乗る。こゝに仏教の魅力があると、私は感じます。
譬へで考へてみませう。
わづかに開いた窓から、1匹の蜂が入り込んだとします。蜂には窓ガラスのあるなしの見分けはつかないでせうから、入るときはたまたまうまい具合に入れた。ところが、いざ出ようとすると、どこが窓ガラスの隙間か見分けがつかず、何度もガラスにぶつかつては撥ね返される。
このとき、窓ガラスを少し広く開けてやるか、窓の隙間にうまい具合に追ひ込んでやると、めでたく脱出に成功する。これが「大愚」です。こんなこと、蜂にとつて何でもないことのやうですが、人間には意外と難しい。
どういふことか。
何かの目標を持つて努力するとき、これがベストの方法だらうと考へて何度もトライするが、なかなかうまくいかない。それを傍から見てゐた第三者が「別のかういふ方法がよくはありませんか」とアドバイスする。ところが本人はそれを簡単には受け容れないのです。
「自分はこれがベストだと信じる」
「これまでづつとこの方法で努力してきた。いまさら方法を変へれば、今までの努力は何だつたんだ」
そんなふうに思ふから、容易に今までの方法を変へられない。そしてその方法から離れられず、何度も同じ壁にぶつかり、状況が打開されない。
蜂の譬へで言へば、飛ぶコースを横に10センチずらせば、難なく外に飛び出せる。ところが蜂が愚かなら、いつまでもコースを変へず、窓ガラスにぶつかり続けるのです。
コースを変へずに失敗を繰り返すのを「愚」と言ひ、アドバイスに従つてコースを変へ、さつと飛び出すのを「大愚」と言ふ。
「愚」と「大愚」はなぜこのやうに違ふのか。
「愚」は頑なであり、「大愚」は素直なのです。言ひ方を換へれば、「愚」は自我に執着し、「大愚」は自我を放擲する。
「愚」はこれまで学び身につけてきた知識や体験に価値をおき、「私はこれだけのものを持つてゐる」と自尊する。一見すると賢さうなのですが、それは「小賢しい」と言つて、尊敬の対象にはならない。
一方「大愚」は、知識や体験を過去のものとして未練を持たず、それを自分の値札にしない。謂はば、いつも自分が「ゼロ」でゐようとするのです。
自分が「ゼロ」であらうとする。これを「ありのまゝ」と言つてもいゝと思ふ。すると、仏道修行の目的は「ありのまゝの自分」になる、あるいは「ありのまゝの自分」に戻るところにある。
下手に修業すると、行けば行くほど却つて、「ありのまゝの自分」から離れていく。だから「ありのまゝ」はきわめて難しいのです。
良寛和尚がどれほど「大愚」の境地だつたのか、それは分からない。ただ、生涯自分の寺を持たず、寄留の生活を続けた。難しい仏語で説教をしなかつた。少なくとも「大愚」を求め続けた人であつたやうに見えます。
うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ (良寛和尚 辞世の句) |

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