良心は思ひ出させる
ずいぶん昔、まだ十代のころ、初めて原理の講義を聞いたとき、
「自分が知つてゐたことだな」
といふ気がしたのを覚えてゐます。
これは何も傲慢で言ふのではない。
初めて聞いて難解な内容も多々ある。出てくる大半の聖句は知らない。歴史の細かいところも知らない。
しかし全体を通して聞いてみると、
「特に突飛なことではない。当たり前ぢやないか」
といふ感じがしたのです。
最近になつてこのときのことを思ひ返してみると、
「あれは新しいことを聞いたといふより、忘れてゐたものを思ひ出したといふのが実感に近かつたな」
と思ふ。
日々の生活の中でも、閃くことがあります。
「なるほど、さういふことか!」
と腑に落ちる。
そのやうに閃いたことは、新しく知つたといふ感じがあまりしない。今まで不徳の致すところで失念してゐたものが、あるきつかけでふと思ひ出された。さういふものは「腑に落ちる」といふ感じがするのです。
未知の専門分野や最新の知見などは、もちろん学んで新しく知る必要があります。しかしもつと基本的な事柄、人生を動かす原理のやうなものは新しく学ぶ必要がない。
さういふものは、新しく学ぶといふより、忘れてゐることを思ひ出せばよい。それはつまり、元々自分が知つてゐたといふことです。
我々は基本原理を知つて生まれてくる。赤ん坊として生まれ、子どもから青年へと成長する過程で、我々は原理を学ぶのではなく、思ひ出す。いろいろな環境やきつかけで一つ一つ思ひ出す。
新しく学んだことなら、そこから新しく人為的に身につけていかなければならないでせう。しかし思ひ出すことなら、それは元々自分の中にあることだから、身につける必要はない。思ひ出したら、そのまゝ発動すればいゝだけです。
新しく学ぶことと、思ひ出すこと。この二つは、どう違ふのか。
新しく学んだことは
「さういふことですか」
といふ、新しく知つた喜びがある。
一方、思ひ出すことは
「確かにさうだ」
と、腑に落ちる。
腑に落ちたことには、自分自身で否定しやうのない「確かさ」があるのです。
「良心には教へる必要がない。良心はあらかじめすべて知つてゐる」
と言はれます。
良心から来る指示は、だから新しい教示ではない。忘れてゐたものをただ思ひ出させるだけなのです。

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