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臨死体験ではなぜ上から見下ろすのか

kitasendo
臨死体験

信じる信じないは別にして、臨死体験といふものがよく語られます。その体験談の中でよくあるのが、麻酔をかけられて手術を受けてゐるとき、ベッドに横たはる自分を天井のほうから見下ろしてゐたといふ話です。

この話にはいくつかの不思議がある。

ふだん我々が何かを見るのは、自分の肉眼を通して見てゐます。眼球に光が入り、その情報が脳に送られて、何らかの仕組みでそれが映像として処理されるのでせう。

ところが臨死体験のときは、所謂幽体離脱をしてゐて、「見下ろしてゐる」といふ自分は肉眼と繋がつてゐるとは思へない。ベッドに横たわる自分といふ映像の情報はどこから入力されたのか。

これも不思議ですが、第二の不思議はもつと不思議。見下ろしてゐた自分とは一体誰なのかといふことです。

臨死体験の話は、必ず「自分がベッドの上の体を見下ろしてゐた」といふ話であつて、「天上のほうに自分が浮かんでゐるのをみあげてゐた」といふ話であつたためしがない。これはどういふことか。

「自分」は、上から見下ろしてゐるほうにあり、ベッドに寝てゐるほうにはないといふことです。「自分」は麻酔をかけられるまではベッドの上に寝てゐたが、その同じ「自分」が手術中は天井のほうに移動し、麻酔から覚めるとまたベッドの上に戻つてゐた。

「自分」といふものの一貫した繋がりが、肉体の側にはない。つまり、肉体には「自分」がないと言ふことです。

ふだんの「自分」は、肉体があつてこその「自分」だと思つてゐます。「首を回さう」と思へば首が回つて、それに伴つて視野も移動する。パソコンで記事を書かうとすれば、思ふやうに指が動いてキーを打つてくれる。

目の前の石に向かつて「石よ、動け」と念じてもびくとも動かない。しかし「自分」の足なら、思ひのまゝに曲げたり伸ばしたりできる。

肉体だけは「自分」の意のまゝに動くので、肉体は「自分」だと思つてゐるのです。

ところが、臨死体験のストーリーの中では、この自意識が怪しくなる。肉体が「自分」なら、天井に浮かんでゐる何ものかを見るはずなのに、決してさうならない。「自分」は天井に浮かんでゐるほうにあつて、それが必ず見下ろすといふ話になるのです。

さらに考へていくと、「自分」が上から見下ろしてゐるといふ体験は、何も臨死体験のときに限らない。我々はつねに上から見下ろしながら生きてゐる。さう言つてもいゝと思ふ。

分かりやすい例を挙げてみませう。

サッカーをするとき、選手は目の前だけを見てゐるのではない。サッカーコート全体を上から俯瞰しながら、自分の位置を確認し、どう動くか、どこにボールを送るかをシミュレートしてゐるのです。肉眼は俯瞰できないが、「自分」は俯瞰できるのです。

「俯瞰」をもう少し抽象化すれば、人間関係も同様でせう。

肉眼では自分と相手の姿、あるいは互ひの距離しか見えないが、人間関係を円滑にするには自分と相手を上から俯瞰しなければならない。相手の心を慮り、自分と相手の間合ひを計つて言葉や行動を調整する。これも俯瞰と言つていゝでせう。

さらに「俯瞰」は空間だけではない。時間的にも俯瞰しながら生きてゐます。

肉体はつねに「今」にしかゐないのに、「自分」は必要に応じて自由自在に過去にも未来にも移動できる。過去、現在、未来を俯瞰しながら「今」を生きてゐるのです。

こゝから考へると、どうも肉体は自分ではない。そして、「空間」も「時間」も「自分」の中にしかないといふのが正しいやうに思へます。

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Admin:kitasendo