道徳心を満たすための生贄
〇〇砲といふのがときどき発砲されて、それに当たつた政治家がその政治生命を絶たれる。あるいはそこまでいかなくても、瀕死の重傷を負ふ。さういふ社会現象を我々はしばしば見ることがあります。
この砲弾は政治家ばかりでなく、たいてい社会の有名人に向けられる。
賄賂を受け取つた、有力な政治家。
セクハラをした、大企業の幹部。
不倫が発覚した、人気タレント。
などなど。
彼らが被弾すると、多くの人が興味を持ち、それによつてその週刊誌は部数を伸ばす。記事を読んだ人たちの中から「確かに不道徳だ。許せない。何とかしろ」といふ声が上がる。世論が盛り上がるにつれて被弾した人は追ひつめられ、栄光の座から一気に転落する。
大体、さういふ流れになつてゐます。
この場合、被弾した人は、
「多数者の道徳心を満たすための生贄」
と見ることもできるでせう。
人は誰でも、それなりの道徳心を持つてゐます。「賄賂は悪いでしよ」と言へば、大抵の人は「それはさうだ」と思ふ。否定はできない。
その不正を見つけて〇〇砲を撃つ週刊誌にも、その道徳心がある。その道徳心に則つて記事を書けば、不正を暴く正義の立場に立てる上に、部数も伸びて売り上げが上がる。政治的な影響力も行使できる。一石三鳥、こんなにいゝことはない。
一方、それを買つて読む人たちにはどんなメリットがあるのでせうか。事実を知るために実費を払つて週刊誌を買はねばならない。しかも被弾者は直接的には自分に関係のない人である。実質的なメリットはないやうに見えます。
しかしそれでも、
「自分の道徳心が満たされる」
といふ報酬があります。
道徳心が満たされるといふ快感。これはとても大きなものです。しかしこれが満たされるためには、生贄が必要とされる。それで我々は常に適当な生贄を探してゐるのです。
人によつては、かういふ仕組みは我々人間が社会生活を営む必要上、脳内に仕組まれた仕掛けであるとも考へる。随時適当な生贄があることによつて、大多数の人々の心が平和に保たれ、社会秩序が維持されるといふわけです。
しかし、本当にさうでせうか。
我々の道徳心の根つこは良心と言つていゝでせう。良心は「第二の神」であり、自分の人生の「羅針盤」なので、本性的に自分の人生にのみ関心を持つものです。つまり、本来良心の指示は常に自分自身の内面に向かふのであつて、外には向かない。
良心の関心は
「私をいかに成長させ、完成させるか」
といふことなのです。
だから良心が私に問ふのは、
「あなたはこのやうな考へ方、やり方で成長できるのか。完成に向かへるのか」
といふこと以外にはない。
ところがこんにち、我々の良心は往々にして自分の外に向かふ。
「あいつの行動は、私の道徳基準から見て正しい(あるいは、正しくない)」
といふふうに働くのです。そして正しくないと判断すると、糾弾して生贄に祭り上げる。
これはなぜかと考へてみると、どうも良心が本来の機能を失つてゐる。自分を育てる方向に機能せず、外部に向かつて「正しい」「間違つてゐる」といふ審判ばかりを行なつてしまふのです。
さうなると、一時的に良心の欲望は満たされて留飲を下げるものの、自分自身は一向に成長しないといふことになる。
宗教の本来の役割は、この良心の失つた機能を回復させることでせう。
だから大抵の宗教は
「自分の外を見ずに、内を見なさい。問題は常に、あなたの内面に潜んでゐる。それを見つけて、成長のエネルギーにしなさい」
と教へるはずなのです。

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