あなたは偶然の世界の住人ではない
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。 (『マタイによる福音書』10:29-31 ) |
これは昔私が教育部長だつたころ、信仰講座の講義でよく引用した聖句の一つです。今でも時々、脳裏に浮かぶ。この聖句、考へれば考へるほど、神から我々の人生へののつぴきならない挑戦状のやうに思へてきます。
2人が一緒に歩いてゐたところ、目の前で急に雀がバタバタと落ちてきたとします。
一人は
「急に雀が落ちてくるなんて、珍しいことがあるものだ」
と思ふ。
ところがもう一人は
「神が私の目の前で雀を落として見せたのだ」
と思ふ。
この2人は隣り合つて同じ情景を見てゐながら、その実、まつたく違ふ世界に住んでゐる。最初の人は「偶然の世界」の住人であり、もう一人は「必然の世界」の住人なのです。
我々の人生には日々、大小さまざまな思ひがけないことが起こる。ところがそんな個人的で些細なことまで神が一々関与されるだらうか。実際のものごとは私の思ひ一つで変はりえるし、神だつてそんなに暇ではあるまい。
さう思ふ一方で、神は私の髪の毛の数まで知つてゐるといふのも気になる。私自身も知らないそんなものを、なぜ神が知つてゐるのか。といふより、なぜ知らうとされるのか。
それは多分、それほど私に関心があるといふことではないだらうか。関心があるからこそ、髪の毛の数まで数へて知つてゐる。もしさうなら、神は私の人生のどんな些末事にも関心を持ち、関はつておられるといふ可能性があります。
その可能性を、私が信じるとする。それを95%信じるのか、それとも100%信じるのか。これは一見小さな違ひのやうに見えて、実は天地の隔たりがあります。
最初の人が神などまつたく念頭にない人なら、神の関与を信じる度合いは0%でせう。一方、私が神を信じる人であつても、それが95%であるなら、本質的には0%の人と同じなのです。
95%信じるといふのは、
「大抵はさうかもしれないが、例外もあるだらう」
といふことです。
さてそれなら、今回のこの出来事は必然なのか、それとも偶然なのか。常にその弁別が曖昧で、迷ふといふことになる。
「あなたは95%にとどまるのか。それとも100%信じるのか」
といふのが、神からの挑戦状なのです。
こゝで、冒頭の聖句を少しアレンジしてみませう。
あなたは自分を小さな存在だと思つてゐるかもしれない。しかしあなたが生まれることも死ぬことも、あなたがたの主の許しがなければありえないのだ。だから、恐れるな。あなたは決して「偶然の世界の住人」ではない。 |

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
敵(かだぎ)だつても、でァじにしろ 2020/07/30
-
私の好きな色はピンクです 2011/09/18
-
「問題」といふ福音 2021/08/16
-
心臓にリードさせる 2020/08/25
-
スポンサーサイト