お金の現実と幻想
山口県ののどかな田舎町(人口およそ3000人)が全国の注目を集め、一躍有名になつてゐます。町役場が特別給付金として4630万円を誤送金したといふ件です。
この件がきわめて珍しいのは、誤送金もさることながら、振り込みを受けた側の男性が返金を拒否したこと。のみならず、その大金をわづかな期間にネットカジノにすべてつぎ込み、手元にまつたく残つてゐないといふ。
こんな人間が本当にゐるのか。誤送金するにしても、よりによつてよくもこんな人間に振り込んだものだと、まつたくドラマを観るやうです。
誤送金される前、彼の口座にあつたのはわづか665円。そこへ本来の給付金10万円と誤送金の4630万円を合はせて4640万円が突然振り込まれた。何気なく通帳を記帳してみると、そこには見たこともない4640万665円といふ数字が印字されてゐる。
5桁も違ふのです。まさに目を疑つたでせうね。
463人分の給付金をまとめて一人に誤送金したのは、担当者痛恨のミスには違ひない。しかし、担当者が可哀さうに思へるほどに、送金した相手が厄介な男だつた。
誤送金されたお金を着服するばかりか、間髪入れずに賭け事につぎ込む、倫理観ゼロの男。言ふまでもなく、彼が今回の事件の中心人物に見えます。
ところが、こゝには隠れた主犯がゐるやうに、私には思へる。「お金」といふものが、それです。
お金にもちろん悪意はない。そのお金に操られた人間が悪いと言へば、それはさうですが、お金が人間を操る力はあまりにも大きいのです。
お金とは、そもそも何か。
男にとつて振り込まれたお金は「数字」。通帳に桁外れの数字が印字されてゐるのを見て、彼は自分が急に「金持ち」になつた気分を味はふ。そして、それを元手にカジノで儲けようと、振り込まれた口座から別の口座へ「数字」を移し替へたのです。
一方、誤送金した町の職員にとつても振り込んだお金は多分「数字」だつたでせう。町の預金口座にある「数字」を該当者の口座へ移し替えただけです。
職員も男も、実物のお金は見てもおらず、触つてもゐない。扱つてゐるのは金額を示す「数字」だけだつたに違ひないと思ふ。
さて、この「数字」は現実なのか、幻想なのか。
お金といふものがそもそも、紙幣であれ硬貨であれ、それ自体何ら価値あるものではない。「国家の信用」といふ約束ごとの上にのみ通用する幻想的な価値にすぎないのです。国の信用が一朝失墜すれば、紙幣はたちまちにして紙くずとなる。
ましてその「数字」となれば、それは通帳の紙面に滲むインクの滲みであり、パソコン画面に映るデジタル信号にすぎない。そんなものはネットカジノですれば、瞬時に消えてしまふ。
さういふ幻想であるにもかかはらず、「数字」が大きくなつただけで金持ちになつた気分になり、「数字」の移し替へをミスしただけで取返しのつかない大失敗になる。さういふ意味で、この事件の主犯は幻想としての「お金」だと言へなくもないと思ふのです。
幻想が終はつて、現実が始まるのはこれからでせう。誤送金してしまつた職員は、これからどんな境遇で生きていくやうになるのか。カジノで使ひ果たした男がこれから返済をしていくなら、今後休まず働いて何十年かかるのか。
我々の人生の中で何が現実で何が幻想かを見極めるのは、思ふほどたやすくはないかもしれない。
今目で見ているもの、手で触つてゐるもの。それが現実ではないかと、ふつうは思つてゐます。
しかし目の前に薔薇があるとして、その薔薇の現実(reality)は何かと追求していくと、分子になり原子になり、素粒子となつて、最後はエネルギーとして霧散する。薔薇とは結局、霧散するエネルギーだといふことになります。
キリスト教神学では、神を「究極の現実(ultimate reality)」と呼びます。見えて触れるものが現実だと思つたら、実は見えも触れもしないものが本当の現実だと言ふのです。
本当にさうだとすれば、我々の通常の認識がひつくり返つてゐることになる。現実だと思つたものが実は幻想で、幻想だと思つたものが実は現実だといふ話です。
これは我々の認識がただ間違つてゐるといふ話ではない。幻想を現実と思ひ違ひすると、目の前の現実にひずみが生じはしないかといふことです。

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