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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

私は誰の隣人になれるか

2022/05/21
信仰で生きる 0
イエス
良き隣人

ある一人の律法学者がイエスの前に現れ、
「先生、何をしたら永遠の命を得られませうか」
と尋ねたことがある。

律法学者がイエスに質問するとき、その多くは内心に謀りごとを隠してゐます。しかしこゝではその企みを考慮せず、問答の本質を探つてみようと思ひます。

「律法には何と書いてあるか」
イエスは反問なさる。

「心を尽くして主なる汝の神を愛せ。そして、自分を愛するやうに汝の隣り人を愛せ、とあります」

「あなたの答へは正しい。その通りに行へば、願ひは果たされよう」

そこで律法学者は重ねて尋ねる。
「私の隣り人とは、誰のことですか」

それに対してイエスは、例へ話をお始めになる。

ある人が旅の途中で強盗に襲はれ、持ち物を奪はれた上に瀕死の大怪我を負つた。そこへ3人の人が通りかかる。

最初は祭司。しかし彼は見てみぬふりをして通り過ぎた。
次にレビ人。彼もまた同様、関はりを避けて通り過ぎた。

最後にサマリヤ人が通りかかる。サマリヤ人はユダヤ人から見れば忌むべき異邦人。ところが、彼は半死の旅人を気の毒に思ひ、近寄つて応急手当をし、自分の馬に乗せて宿屋まで連れて行つた。

治療代

宿屋の主人に2デナリを渡し、
「これで医者に診てもらつてください。もし足りなければ、また帰りに私が支払ひます」
と言つて宿を発つた。

この話をした上で、
「この3人の内、誰が倒れた旅人の隣人になつたと思ふか」
イエスは律法学者にお尋ねになる。

言ふまでもない。異邦人であつても、3人目のサマリヤ人が隣人であると、律法学者も答へざるをえない。

さてこゝで、イエスは例へ話をしながら、巧みに論点をずらしておられるのです。

律法学者は
「私の隣人は誰ですか」
と尋ねたのに、イエスは
「旅人の隣人は誰だつたか」
と聞き直された。

律法学者は、自分を中心にして「私が誰を隣人にするか」と発想してゐたのに対して、イエスは「私は誰の隣人になれるか」といふテーマに切り替へたのです。謂はば、主語を入れ替へた。

これは小さなことのやうに見えて、思ひがけず問題の深層を掘り下げてゐます。

「誰が私の隣人か」と問ふとき、私が自分の隣人を規定しようとしてゐます。最も身近な人であれば、私の家族や親族。もう少し広げれば、同僚や同族の人たち。

「この人たちを私の隣人として、愛します」
といふ態度です。

これに対して、「私は誰の隣人になれるか」と問ふときは、私が自分の隣人を選り好みできないのです。

祭司とレビ人は「誰が私の隣人か」といふ発想で、自分の都合で、半死の旅人を自分の隣人にしなかつた。ところがサマリヤ人は自分の都合で選んでゐない。たまたま通りかかつたら人が大怪我で倒れてゐたので、「通りかかつた」といふ運命を受け入れて自ら彼の隣人になることをためらはなかったのです。

前二者とサマリヤ人との違ひは、どこから生じてゐるのでせうか。

前二者にとつて「隣人」は恣意的に決めえるのですが、サマリヤ人にとつての「隣人」は運命なのです。運命であれば、自分で勝手に作れないし、やつてくれば勝手に拒むこともできない。

「私は妻の良き隣人でありえるか」
と問ふとき、妻は私にとつて運命なのです。

私の子どもも私の運命であり、今日出会ふ人も私の運命です。隣人を選ぶことはできず、ただ「隣人を愛するか、どうか」の選択があるだけです。

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