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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

身体は行動し、魂は在る

2022/05/20
読書三昧 0
神との対話
笑う

「行動すること」は身体の働きである。「在ること」は魂の働きである。… 身体は魂に促されて何かをするか、魂に反して何かをする。人生の質はこのバランスによって決まる。
(『神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ)

筋ジストロフィーといふ病気を身近には知らないが、テレビとかで観ると「大変な病気だな」と思ふ。歳とともに筋力が急速に衰え、昨日までできたことが今日はできないといふことが次々に起こる。

歩けなくなり、手が動かなくなり、口が動かなくなる。歩けなくなつても車椅子で動くことはできる。しかし口まで動かなくなると、もう喋ることができない。

このとき手も動かなければ、筆談もできない。自分の気持ちも意思も伝へる術がなくなる。人が生きることを情報のインプットとアウトプットの組み合はせと考へれば、アウトプットがほぼできなくなるわけです。

アウトプットを可能にしてゐるのが筋肉であることを、改めて思ひ知らされます。該当各部の筋肉が適切に動くからこそ、我々はいろいろな作業をすることができるのはもとより、自分の感情や考へを表現し伝へることができる。筋肉は謂はば物質ですが、我々の人間的な生の表現はその物質の機能にかかつてゐるのです。

これは考へてみると、実に霊妙なことですね。

神との対話』では「魂」と表現されてゐるもの。これを「霊人体」と言つてもいゝでせうが、これが身体(肉体)に入つてゐる。

魂の本質は「在ること」であり、身体の本質は「行動すること」とは、どういふ意味でせうか。

魂はつねに何かを「感じ」、何かを「考へ」、何かを「意志して」ゐる。しかしそれらはいづれも「在る」といふ状態にあり、それを外に表出することが魂自体ではできない。魂の「在る」状態を形にして外側に表現するものが身体の「行動」です。つまり、魂には身体の「行動」が必須なのです。

魂が喜んでも、顔を構成する各種の筋肉が正常に動かなければ、笑ふことができない。笑はなければ、相手には自分の喜びが伝はらないし、多分、自分自身においても喜びが増幅されないでせう。

このやうに、身体は魂にとつて絶対に必要なものです。しかし、こゝで神は一つの警告を発してゐます。

魂は永遠にあるものだ。身体が何をしようとも、魂は在るがままに存在する。あなたが、人生とは「行動すること」だと考えているなら、自分を理解していない。
(同上)

我々は自分の内面を身体の行動によつて表現する。そして相手の内面も、その身体行動から推し量る。行動だけが目に見えるものだから、何か問題が起こつたときには、行動によつて解決しようと考へるでせう。

「かういふときには、どう対処するか」
と、すぐに行動を考へやすい。

しかし、人生において最も大切なこと、即ち魂の成長は行動によつては達成されないと神は言ふ。魂にとつては、身体がどんな行動をするかではなく、その間、魂がどんなふうに在るかだけが大切だと言ふのです。

自分の魂はどんな状態で在りたいのか。それを考へてみる。「どう行動するか」よりもまづ、「どう在りたいのか」を考へてみるのです。

魂の思ひを探つてみれば、魂は対立をしたくない。「あなたと私」といふふうに分けたくない。

魂は差別をしたくない。「あなたよりも私のほうが正しい」と正誤で分けて相手を否定したくない。

魂は結局、自分の在り方を誇りたいし、喜びたいのです。自分が神のやうであることを欲するのです。

対立と差別がなく、誇りと喜びがある状態でゐるためには、どうしたらいゝか。それを慎重に考へ、その状態から身体の筋肉を動かすのです。

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