勝つとも負けるとも思はない
剣豪宮本武蔵は生涯で六十余度の真剣による果し合ひに臨み、無敗だつたと言はれる。彼の名は天下に轟き、晩年、肥後熊本藩主、細川忠利公に客分として招かれた。
あるとき、武蔵との対話で細川公が
「これまで数ある対決の中で、この勝負は勝てるとか、もしかして勝てぬとか、そんな思ひを持つたことがおありか」
と問ふと、武蔵は
「私は勝つとか負けるとか、さういふ考へを持つたことはござらぬ」
と答へた。
細川公は武蔵の心中をはかりかねて、
「とは言へ、命の取り合ひをするのに、勝ち負けを考へぬはずはあるまいと思ふが」
と重ねて問ふと、
「私は武術家でありますから、命の取り合ひが、いはば私の本職でござる。本職の度に勝つか負けるかなど、考へたことはござらぬ」
と武蔵は答へたのです。
真剣勝負の際に、勝ち負けの考へが一切ない。相手と面と向かつたとき、「どんなことがあつても絶対に勝つ」などと考へない。かと言つて、「負けるかもしれない」とも怖れない。勝ち負けを超越してゐるのです。
これを禅宗では、
「不思量底を思量せよ」
と言ふらしい。
思はないでゐようと思ふのも思ふことだ。思はなければ思はない。さういふことのやうです。
真剣勝負に限らず、どんな道であれ、それなりの境地に入るなら、「勝つ、負ける」「肯定、否定」の考へがなくなる。それでこそ心が安定し、見るべきものが見えてくるといふことがあるのでせう。
否定も肯定もない状態を「あるがまゝ」といふことができます。自然万物はみな「あるがまゝ」だと思ふ。ところがそれを我々人間が見るとき、肯定か否定で見てしまふ。「これは好きだが、あれは嫌ひ」「あれは得になるが、これは損になる」といふふうに「思量」の世界に引き込んでしまふのです。
武蔵は己の心を「思量」の世界から、もとの「あるがまゝ」の状態へ戻したのでせう。そこに彼の超人的な強さの源がある。
私自身の課題も、この「思量」の世界から抜け出ることだと思つてゐるのです。
「かうすれば、天の恩恵が来るだらう」
と期待しない。
「あゝすれば、天罰がくだるだらう」
と案じない。
損得の勘定(肯定・否定)を超越するといふことです。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
いいなぁと惚れ込む感性のほうが大事だね 2019/01/02
-
畏みて詔り直す 2022/01/16
-
完璧な生き物になりたい 2019/06/19
-
父の遺訓は消えない 2018/09/06
-
スポンサーサイト