fc2ブログ
まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

美しい薔薇はどこにあるか

2022/05/18
思索三昧 2
原理講論
美しい薔薇

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
(『当麻』小林秀雄)

これは小林秀雄の名言の中でも、ひときわ有名な名言でせう。この名言がどういふいきさつで出てきたのかも興味深いところですが、こゝで私は「自我意識」との関係でこの言葉を考へてみたいと思ふ。

彼は「花の美しさはないが、美しい花はある」と言つてゐます。しかし現実には「美しい花」もないのです。

例へば、薔薇とか桜とか百合などといつた「花」はある。しかし「美しい薔薇」「美しい桜」「美しい百合」といふものは、現実にはない。

薔薇といふ花を見て、それに「美しい」といふ形容詞を付けたくなるのは、それを見てゐる私の「自我意識」(今後は単に「意識」と呼ぶ)です。薔薇自体には「美しい」といふ性質はないが、「意識」が薔薇の中に「美しい」といふ価値を発見する(あるいは感じる)のです。

だから、「意識」の働きによつて「美しい薔薇」が生まれる。どこに生まれるか。現実の世界ではない。「意識」の世界(私が「私の中の世界」と呼ぶ領域)に生まれるのです。現実の世界にあるのは、あくまでも「花」としての薔薇のみです。

このことはもちろん、「花」に限つた話ではない。

我々が見たり触つたりして「ある」と思ふあらゆるものは、確かにこの現実世界に存在するでせう。しかしそのものに何らかの価値判断を含む形容詞のついたものは現実世界には存在せず、「意識」の世界にのみ存在するのです。

例へば、「犬」は現実世界の存在だが、「可愛い犬」は意識世界の存在。「田中何某」といふ人は現実世界の存在だが、「私の嫌ひな田中何某」は意識世界にのみ存在する。さう言つた具合です。

こんなふうに考へると、この「意識」といふもの、ほんとうに不思議だと思ふ。これは一体何者でせうか。

そもそも薔薇を創造したのが神だとすれば、神はその薔薇に「美しい」といふ形容詞を付けたい方だらうか。きつとさうでせう。やはり神から出たに違ひない私の「意識」が「美しい」と感じるのですから、その元である神にその性稟がないはずがない。

とすれば、私の「意識」は神の性稟と相似であるに違ひないが、と同時に、まつたく同じでもないはずです。なぜなら、まつたく同じなら、敢へて創るまでもないから。

基本形は神と同じでありながら、個性もある。それが私の「意識」だと考へられます。この「意識」は独自の世界を内包し、神が美しいと思つて創つた薔薇を、やはり私なりに美しいと感じる感性を具へてゐます。

「意識」が内包する世界を「私の中の世界」とも呼んできました。神は「意識」といふ実存体を無数に創造し、それぞれが独自の世界を持つやうにされた。「意識」がその「私の中の世界」の主人となり、責任を持つて理想的な世界を創造する責任分担を与へられた。その責任分担を果たすことを「個性完成」と言つてもいゝかもしれない。

神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって、神と一体となるので、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活するようになる。
(「原理講論』創造原理 第3節)

「私の中の世界」に「美しい薔薇」を作り、「愛すべき隣人」を作り、そして何より「誇らしい自分」を作れるか。それはひとえに私の「意識」にかかつてゐます。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

カッコウは騙さない
関連記事
スポンサーサイト



Comments 2

There are no comments yet.

🍀

今日も、ありがとうございます🍀
地域天一国化、と言われ 何が正しい姿なのか...どうあらなければならないのか...苦しく思う事もありましたが、私の個性の中での私(私達)の理想の地域を築いていく(つくられていく...)
そして、色とりどりで天国がつくられていく...
楽しく、面白い事であると思わせていただきました🌸

2022/05/20 (Fri) 00:58
kitasendo

kitasendo

Re: タイトルなし

「地域の天国化」は「私の中の世界の天国化」を土台とするでしょうね。

2022/05/20 (Fri) 02:33