自殺すると地獄へ行くか
慢性の病気があつて、日々痛みが絶えない。痛みに耐えるだけで他には何もできない。こんな人生なら自殺して痛みから解放されたいのですが、仏教では自殺すると地獄へ行くと教へる。 痛みの毎日も地獄だが、死んでも地獄へ行く。さうなると、私はどうすればいゝのでせうか。 |
その切実な相談に対して、スリランカ人の上座仏教の長老スマナサーラ長老は、
「自殺すれば地獄に行くと、仏教は教へておりません」
と前置きする。
そして、
「地獄へ行くかどうかではなく、『苦しいから死にたい』といふ一時(いつとき)の考へと行為ではなく、あなたの思考の流れ、パターンがあなたを地獄人にする」
と答へるのです。
お釈迦様が自殺を願ふ妊婦に説教して思ひとどまらせたといふ逸話もある。また、仏教解説には虫1匹でも殺したことがあれば地獄行きだといふものもある。
キリスト教では
「人がいつ、どのやうに死ぬかは神の専権事項である。自殺は神への挑戦であり、悪であり、罪である」
ともいふ。
私もかつて教会で、
「自殺者は地獄の中でも一番底のほうに落ちる」
と聞いたことがある。
自殺はそれほどにあるまじき行為なのか。私にはその真偽のほどが分からないが、長老の答へに深い洞察を感じるのです。
戒めの多くが自殺といふ「行為」にピンポイントしてゐる。それに対して長老は、その「行為」を生み出す「思考(のパターン)」を問題視する。人は「行為」によつて地獄へ行くのか、それとも「思考」によつて地獄人になるのか、といふことです。
「行為」の背後には一連の「思考の流れ」がある。人生をどう見てゐるかです。
「痛みのない人は自分のやりたいことができる。自分は痛みが絶えず、何もできない。この人生に何の価値があるか」
このやうな「思考」が一体、天国に通じるのか、地獄に通じるのか。これが問題の本質です。
長老は、
「痛みのない人は楽だらうといふが、楽な人生はない。社会で活動すればしたで、その責任を問はれる。理不尽に厳しく責任追及する人も多い。それもまた人生の痛みだ」
と、広い視点を提供する。
この視点の意図は、単なる人生の相対化や苦痛への慰めではない。「あなたは自分の人生をどう見てゐるか」と、自己省察を深く促すものです。
こゝには仏教独自の人生観が背後にある。前世の因が今世に果として現れる。悪因があるなら、それを借金として今世で返済する。そのための痛みである。
それが事実であらうとなからうと、今世の人生観を明るくしようといふのが長老の真意だらうと思ふ。
それはキリスト教なりに、「神の試練だ」と考へてもいゝ。苦痛を「甘受」することで蕩減条件に変へると考へてもいゝ。いづれにせよ、人生観を明るくするといふことが大切だと思ふのです。
明るい人生観は天国に通じ、暗い人生観は地獄に通じる。行為の背後にあつて、その行為を引き起こしてゐる「思考のパターン」に一度しつかり目を向けてみようといふことです。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
ヒューレン博士の遺産 2022/01/24
-
やわらぎの人 2022/10/02
-
節ちゃんはいい子なんだ 2016/02/12
-
なるやうに、なる 2022/09/24
-
スポンサーサイト