「意味の場」を改めて解説する
マルクス・ガブリエルの唱へる「意味の場」の概念は、私にとつてとても啓蒙的なものですが、いくつか記事を書きつゝ「説明が分かりにくいな」と我ながら思ふ。改めて解説を試みてみます。
これはガブリエル自身が挙げてゐる実例です。

アーノルド・シュワルツェネッガーといふ人がゐます。この人は若いころにボディビルの大会で優勝した人であり、その後は映画界に入つてターミネーターといふ人造人間になつた人です。さらには政治界にも転身してカルフォルニア州知事を務めたこともある。
シュワルツェネッガーといふ人物はあくまでも一人なのですが、いくつもの違つた姿があります。どの姿が本当のシュワルツェネッガーかと言へば、どれもがみなさうなのです。
これは何も特段変はつた話のやうには見えない。シュワルツェネッガーといふ人はあくまで一人であり、彼のキャリアはその属性だと考へるのがふつうでせう。
ところが「意味の場」論はこの問題を次のやうに考へる。
① シュワルツェネッガーその人
② ボディビルダーのシュワルツェネッガー
③ 映画俳優のシュワルツェネッガー
④ 政治家のシュワルツェネッガー
少なくともこの4通りのシュワルツェネッガーが「実在」するといふのが、「意味の場」論の見立てです。
「意味の場」を説明して、ガブリエルはかう言ひます。
問いが「意味」であり、答えが「場」です。対象は「意味の場」にあるのです。対象の本質が、問いへの答えだからです。 (『世界史の針が巻き戻るとき』マルクス・ガブリエル) |
「シュワルツェネッガーはどんな人ですか」
といふ問ひが「意味」です。
それに対して、
「彼はボディビル大会の優勝者です」
といふ答へを出すとき、彼は「肉体派といふ意味の場」に実在する対象になるのです。
言ひ方を変へませう。問はれたときに「彼はボディビル大会の優勝者」といふ答へを出す人は、その人の中に「肉体派といふ意味の場」を作つてゐるといふことです。
どのやうな「意味の場」を作るか。それはその人がどんな感性や思考、関心や志向性を持つてゐるかによります。「意味の場」を作るとは一つの「世界」を作るといふことなので、その人がどんな「世界観」を持つてゐるかによると言つてもいゝでせう。
次のやうな例を挙げて、私の言ひたいことをもう少し明らかにします。
私の前に一人の人がゐるとします。
そのとき
「この人はどんな人ですか?」
といふ問ひを受けたとすれば、私はどういふ答へを出すか。
「この人は自己勝手で、優しさがありません」
といふのが私の答へなら、彼は私の作つた「敵対といふ意味の場」に実在する対象なのです。

ふつう、私の出した答へは私が客観的にその人を観察した結果だと考へる。しかし「意味の場」論から考へると、私が「敵対といふ意味の場」を持つているために、彼がそのやうな人として現象化してゐるのです。
これはとても重要な視点だと私は思ふ。
我々はふだん、自分がどんな「意味の場」を持つてゐるかをはつきり自覚しない。それで自分が評価するものは自分の客観的な判断だと思つてゐます。
しかし実はさうではない。我々は自分が作つた「意味の場」の中の対象を見て「この人はかういふ人だ」と思ひ込んでゐるにすぎないといふのが、「意味の場」論の視点なのです。
この視点に従ふなら、私が「意味の場」を変換すれば、その場に実在する彼も違ふ姿になるでせう。
例へば、「敵対といふ意味の場」を「和解といふ意味の場」に切り替へる。すると「勝手で優しさがない」人が「目的志向で責任を持つ」人に姿を変へるかもしれません。

こゝでありがたいのは、「意味の場」を切り替へるのは私自身だといふことです。対象を変へる必要はない。「意味の場」を切り替へれば、対象は自ずと変はるのです。

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