天国は実在する
前回の記事「意味の場の信仰」に続き、「意味の場」から見たイエスの「天国論」について考へてみます。
その「天国論」とは次のやうなものです。
神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。 (ルカによる福音書17:20~21) |
この言葉には前段がある。
清めの奇跡をおこなつてゐるイエスのもとに、パリサイ人がやつて来て、イエスに尋ねた。
「神の国はいつ来るのですか?」
病気の者を治す奇跡は、天国が近づいたことの兆候ですか。あなたの超人的な能力によつて天国が実現できますか。
さういふ問ひに対して、イエスは
「天国はそのやうには実現しない。それはあなたの中にある」
と切り返したのです。
こゝでは奸計を企むパリサイ人の思惑などは脇に置いて考へます。
不当な支配から解放され、神殿を再建し、メシヤを王として神政を布いて体制を改め、民心を教育すれば、天国を実現できるのではないか。我々はみな、天国の環境の中で生きることができるのではないか。
天国の主権と国土と国民。これももちろん必要であり、これを「実在する天国」と呼びませう。しかし、イエスが言ふところの「あなたの中にある天国」、これもまた実在する天国なのです。
前者だけが本当の天国であり、あなたの中の天国などは一種の観念にすぎない。さう考へる傾向があります。しかし前者を「形而上学天国」と言へば、後者は「意味の場における天国」であり、どちらも実在であることに変はりはないのです。
少し比喩的に考へてみませう。
今、私の目の前に花が咲いてゐる。葉っぱの上にはテントウ虫がとまつてゐる。
この光景は「日常生活といふ意味の場」で見ると、何気ない自然の営みの姿にすぎません。ところがこの同じ光景を「天国といふ意味の場」で見れば、それはたちまち光り輝く生命の躍動、神が精魂込めて創り上げた傑作品に見えてくるのです。
花も虫も、形は同じ実在です。ところが、意味の場が切り替はると、それらはまつたく質の違ふ実在に変化するのです。
「意味の場の天国」は「形而上学的な天国」と、結局何がどう違ふのでせうか。
天国の本質は特定の場所でもなく、組織や制度でもない。私が天国にどのやうな「意味」を賦与できるか。その「意味」如何で、私は今私が属する世界を即座に天国にすることができます。
問題は、そのやうな「意味」を私が容易に賦与できないといふことです。それは私がいまだ天国人になれていないといふことを示してゐます。
イエスが「天国はあなたの中にある」と言はれたのは、
「『天国といふ意味の場』を作れるなら、あなたの見てゐる世界は即座に天国になる」
といふことでせう。
多分、多くの人が「単なる堕落した罪の世界」を見てゐたとき、イエスは同じものを見ながらも「天国」を見ておられたのだと思ふ。同じ空間で一緒に暮らしてゐても、一人は天国生活をし、もう一人は地獄の生活をしてゐるといふことがありえるのです。
「地上天国を創建しよう」
といふとき、我々は往々にして目に見える大勢の人や組織で構成された理想のシステムを思ひ描きやすい。
しかし実のところ、一人一人が「天国といふ意味の場」を作れない限り、どうやつて「形而上学的天国」を創れるでせうか。

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