意味の場の信仰
信仰上のいろいろな概念理解を「意味の場」といふ観点から見直してみたらどうか。新しい発見があるかもしれない、と思ひ始めてゐます。
例へば、
「神といふ意味の場」
あるいは、
「天国といふ意味の場」
「罪とその清算といふ意味の場」
「堕落性を脱ぐといふ意味の場」
と言つた具合です。
従来、「神」とか「天国」などを考へるとき、概して形而上学的にアプローチする傾向があつたやうに思ふ。
形而上学によれば、神も天国もただ一つのみ存在する。
神を富士山の頂上に譬へてみませう。あらゆる人はその唯一の頂上を目指してそれぞれ違ふルートから登攀する。ルートは千差万別でも、頂上(神)といふ実体はあくまでも唯一です。

天国も同様に、ただ一つの世界です。それはこの被造世界のどこかに神によつて準備されており、あらゆる人は資格を得てその世界にたどり着こうと努力する。
神も天国も、私とは別個の存在であり、私がゐやうとゐまいと、あるいは私が意識しやうがしまいが、厳然として客観的に存在してゐる。だからさういふ神に出会ひ、天国に行くには、何らかのルートを経なければならない。さういふイメージです。
それに対して「意味の場」とは、どういふことか。
A、Bといふ2人の人が富士山の頂上を目指すとします。そのとき、2人が仰ぎ見る頂上は同じ姿ではありません。AさんにはAさんに見える頂上の姿があり、BさんにはBさんに見える頂上の姿がある。互ひに「頂上で会はう」と言つても、その頂上は同じ頂上ではない。
Aさんにとつての頂上は、Aさんが作る「意味の場」に存在する頂上であり、Bさんにとつての頂上は、Bさんが作る「意味の場」に存在する頂上です。「富士山の頂上」といふ言葉は同じでも、その頂上の数はそれを見る人の数(「意味の場」の数)だけあることになる。
ただ頂上そのものは確かにあるので、AさんとBさんは一つの同じ頂上で出会ふことができます。

これを神に当てはめれば、これまでは神はただ一人だけだと思つてゐたのに、実は神について考へる人の数だけ神は存在するといふことです。
AさんとBさんがともに「私は神を信じる」と言つても、互ひがいふ「神」は同じ神ではない。それぞれが作つてゐる「意味の場」の中の神を信じると言つてゐるのです。
天国についても同様です。
天国も一つではない。天国を考へる人の数だけあるといふことになります。
Aさんは「天国」を
「神の愛がすべての者に等しく降り注ぐ世界」
と考へる。
Bさんは
「自分の本性が100%現れる世界」
と考へる。
2人はともに「天国に行きたい」と言ふけれども、それは同じ天国ではない。AさんはAさんの「意味の場」に存在する天国に行きたいと思つており、BさんはBさんの「意味の場」に存在する天国に行きたいと思つてゐるのです。
それなら2人とも天国に行つたとすると、彼らは天国で会へるでせうか。会へる可能性は高い。ただし会つたとしても、その会ひ方は、AさんはAさんの「天国といふ意味の場」の中でBさんに会つており、BさんはBさんの「天国といふ意味の場」の中でAさんに会つてゐるのです。
こゝでちよつとまとめておきませう。
AさんBさんをめぐって、結局「天国」はいくつあるのか。
① Aさんの「意味の場」の天国
② Bさんの「意味の場」の天国
③ 天国それ自体
の3つです。

観念論では①と②だけが実在し、形而上学では③だけが実在すると考へます。しかし新実在論を唱へるマルクス・ガブリエルは①②③ともに実在するといふ。私もこゝでは彼の考へ方に従ひます。
この観点から、次はイエス様の「天国論」について考へてみませう。

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