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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「意味の場」を変へる

2022/05/12
思索三昧 2
ガブリエル

前回の記事「他者と他者性」をもう少し引つ張ります。

「『他者』は常に存在するが、『他者性』は私が意識したときにだけ存在する」

例へば、私の2人の子どもはどちらも家を出て、遠隔地で暮らしてゐます。私は私でおばあちやんの面倒をみながら暮らしてゐる。

こちらの用事が忙しいときは、子どものことを忘れてゐる。そしてときどき、ふとした折に「どうしてゐるかなぁ」と思ひ出す。

私にとつて「他者」である子どもたちは、私が忘れてゐやうが思ひ出さうが、常にこの世界に存在してゐます。ところが「他者性」としての子どもたちは、私が忘れてゐるときには存在せず、思ひ出したときにだけ存在するのです。

あるいは、何かの商品がほしくてネットで検索したとします。検索すれば、その言葉に関連する商品が1秒以内にサッと出てくる。

一般的な商品であれば、ネット上には数万数十万と上つてゐるはず。ところが私が検索画面で目にするのは、その内のわづか数十です。

すると、数十万の情報は実際に存在してゐるのに、私にとつては実質的に数十しか存在してゐない。これも「他者」と「他者性」の関係に似てゐます。

ドイツの新鋭哲学者マルクス・ガブリエルの唱へる「新しい実在論」が、私にはとても参考になります。

私が理解してゐる範囲でざつくり言ふと、これまで存在について論じてきた哲学の代表が「形而上学」と「観念論」。しかしこれらはともに一面的で不完全である。

形而上学は、我々がゐる前から神は存在し、神の創つた世界も厳然と存在してゐると考へる。一方の観念論は、我々が認識したものだけが存在し、それ以外のものは存在しないと考へる。

これに対してガブリエルは、
「あらゆるものは『意味の場』の中に存在する」
と主張するのです。

「意味の場」を彼は「一つの世界」と呼びます。したがつて、「世界」は「意味」の数だけあることになり、事実上無限に存在するのです。

私なりに上の例で考へてみませう。

私が子どもたちのことを思ひ出す。そして「久しぶりに会ひたいなぁ」と考へる。そのとき、私は「親子再会」といふ「意味の場」を作る。すると、子どもたちが「親子再会といふ意味の場」に実在するやうになるのです。

どうやつて会ひに行かうかと考へると、車や高速道路、電車で行くなら新幹線なども「意味の場」に実在し始める。「会つたらどんな話をしようか」といふ「期待感」も実在し始める。

私が子どもたちに「会ひに行きたい」と伝へ、彼らがそれに賛同すれば、彼らも彼らなりの「親子再会といふ意味の場」を作る。そしてそこに、私や私が持参するであらうお土産などが実在し始める。

このやうに「意味の場」は無数にありえます。そしてその「意味の場」の「意味」に関連するあらゆるものは、その「意味の場」の中に実在として存在するのです。

また、私がどうやつて行かうかと考へる前から、高速道路も新幹線も存在してゐるのは間違ひない。新実在論はその存在も認める。だから新実在論は単なる観念論でもなく、単なる形而上学でもないのです。

さてこゝで「他者」と「他者性」の話に引き戻せば、「意味の場」に実在するあらゆるものが「他者性」だと言へます。新実在論はその「他者性」も単なる観念ではなく、実在だと考へる。そこが面白いところです。

ただこゝで、私なりに考へる重要なポイントがある。

例へば、2人の子どもたちがそれぞれ作る「親子再会といふ意味の場」に私が実在するとしても、それぞれの場で私は同じ私ではない。また親子3人それぞれの「意味の場」に「再会の期待感」があるとしても、その色合ひはやはり同じではない。

なぜさうなるのか。「意味の場」の「意味づけ」は人それぞれ独自であるからです。

「意味づけ」をする主体は、その人の潜在意識です。潜在意識の中に無数に存在する記憶によつて、文字通り無意識に「意味づけ」がなされ、それを後追ひで意識が認識する。

無意識が継続的に「意味の場」を作り続け、その結果、私はその意味づけのまゝに「私の人生といふ意味の場」を生きていくやうになる。それが大体、我々のふつうの生き方だと言つてもいゝでせう。

どこかの時点で、
「私は自分の生き方を変へたい」
「私は自分の心の癖を直したい」
と思へば、無意識が作り出してゐる「意味の場」の「意味づけ」を意識的に変へる必要があります。

こゝで「蕩減復帰」といふ問題も出てくるのです。

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養老孟司②
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Comments 2

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善きサマリア人

一つの世界

マルクス・ガブリエルは唯物論を否定しているのでアベル的かと思ったのですが、読んでみるとなかなか難解です。
「一つの世界なんて存在しない」と結論付ける点で神を否定しているようにも思えるし、「人の数だけ世界が存在する」という言説は、価値相対主義のようにも聞こえます(彼はポストモダンも否定していますが)。
「意味の場」とはつまり、責任分担のことなのかと思いました。
神様は人間一人ひとりに責任分担を与えた以上、絶対唯一の世界を強制することはできない。
ただし人間の方から神様に還ろうとすれば、最後は一つの世界ができあがるのだと。
人類レベルで「神を否定する自由」を謳歌するような昨今では、それは存在しないに等しいのかもしれませんが。

2022/05/18 (Wed) 00:01
kitasendo

kitasendo

Re: 一つの世界

ガブリエルの哲学は確かに難解で、私の理解は私なりだろうと思っています。
「意味の場」は人間の責任分担ではないかというのは、慧眼ですね。確かにそう言えると思います。私にしかできない「意味の場」を作るということですね。その中で、神、人、万物と如何に理想的な関係を結ぶかです。
「意味の場」は一人一人が持つものなので、どこまで行っても統合された大きな一つの世界にはならないだろうと、私は思っています。一人一人の「意味の場」を私は「私の中の世界」と呼んでいるのですが、そこでこそ私は「唯一無二の価値」を持ち、「唯我独尊」の存在になれるというのが、今のところの私の見立てです。
原理を「世界の中の私」という観点からだけ見るのは一面的ではないかと危惧します。

2022/05/18 (Wed) 15:13