「意味の場」を変へる
前回の記事「他者と他者性」をもう少し引つ張ります。
「『他者』は常に存在するが、『他者性』は私が意識したときにだけ存在する」
例へば、私の2人の子どもはどちらも家を出て、遠隔地で暮らしてゐます。私は私でおばあちやんの面倒をみながら暮らしてゐる。
こちらの用事が忙しいときは、子どものことを忘れてゐる。そしてときどき、ふとした折に「どうしてゐるかなぁ」と思ひ出す。
私にとつて「他者」である子どもたちは、私が忘れてゐやうが思ひ出さうが、常にこの世界に存在してゐます。ところが「他者性」としての子どもたちは、私が忘れてゐるときには存在せず、思ひ出したときにだけ存在するのです。
あるいは、何かの商品がほしくてネットで検索したとします。検索すれば、その言葉に関連する商品が1秒以内にサッと出てくる。
一般的な商品であれば、ネット上には数万数十万と上つてゐるはず。ところが私が検索画面で目にするのは、その内のわづか数十です。
すると、数十万の情報は実際に存在してゐるのに、私にとつては実質的に数十しか存在してゐない。これも「他者」と「他者性」の関係に似てゐます。
ドイツの新鋭哲学者マルクス・ガブリエルの唱へる「新しい実在論」が、私にはとても参考になります。
私が理解してゐる範囲でざつくり言ふと、これまで存在について論じてきた哲学の代表が「形而上学」と「観念論」。しかしこれらはともに一面的で不完全である。
形而上学は、我々がゐる前から神は存在し、神の創つた世界も厳然と存在してゐると考へる。一方の観念論は、我々が認識したものだけが存在し、それ以外のものは存在しないと考へる。
これに対してガブリエルは、
「あらゆるものは『意味の場』の中に存在する」
と主張するのです。
「意味の場」を彼は「一つの世界」と呼びます。したがつて、「世界」は「意味」の数だけあることになり、事実上無限に存在するのです。
私なりに上の例で考へてみませう。
私が子どもたちのことを思ひ出す。そして「久しぶりに会ひたいなぁ」と考へる。そのとき、私は「親子再会」といふ「意味の場」を作る。すると、子どもたちが「親子再会といふ意味の場」に実在するやうになるのです。
どうやつて会ひに行かうかと考へると、車や高速道路、電車で行くなら新幹線なども「意味の場」に実在し始める。「会つたらどんな話をしようか」といふ「期待感」も実在し始める。
私が子どもたちに「会ひに行きたい」と伝へ、彼らがそれに賛同すれば、彼らも彼らなりの「親子再会といふ意味の場」を作る。そしてそこに、私や私が持参するであらうお土産などが実在し始める。
このやうに「意味の場」は無数にありえます。そしてその「意味の場」の「意味」に関連するあらゆるものは、その「意味の場」の中に実在として存在するのです。
また、私がどうやつて行かうかと考へる前から、高速道路も新幹線も存在してゐるのは間違ひない。新実在論はその存在も認める。だから新実在論は単なる観念論でもなく、単なる形而上学でもないのです。
さてこゝで「他者」と「他者性」の話に引き戻せば、「意味の場」に実在するあらゆるものが「他者性」だと言へます。新実在論はその「他者性」も単なる観念ではなく、実在だと考へる。そこが面白いところです。
ただこゝで、私なりに考へる重要なポイントがある。
例へば、2人の子どもたちがそれぞれ作る「親子再会といふ意味の場」に私が実在するとしても、それぞれの場で私は同じ私ではない。また親子3人それぞれの「意味の場」に「再会の期待感」があるとしても、その色合ひはやはり同じではない。
なぜさうなるのか。「意味の場」の「意味づけ」は人それぞれ独自であるからです。
「意味づけ」をする主体は、その人の潜在意識です。潜在意識の中に無数に存在する記憶によつて、文字通り無意識に「意味づけ」がなされ、それを後追ひで意識が認識する。
無意識が継続的に「意味の場」を作り続け、その結果、私はその意味づけのまゝに「私の人生といふ意味の場」を生きていくやうになる。それが大体、我々のふつうの生き方だと言つてもいゝでせう。
どこかの時点で、
「私は自分の生き方を変へたい」
「私は自分の心の癖を直したい」
と思へば、無意識が作り出してゐる「意味の場」の「意味づけ」を意識的に変へる必要があります。
こゝで「蕩減復帰」といふ問題も出てくるのです。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
動かない石は自分の内部にしかない 2020/06/01
-
「汝自身」を知り、その先へ 2021/02/02
-
ぼくを洗濯機で洗ってください 2022/10/31
-
神の存在証明戦 2022/11/23
-