「他者」と「他者性」
仲間あるいは友人と思つてゐた人が、思ひがけない言動をすることがあると、
「そんな人とは思はなかつた」
と言ひたくなるときがあるでせう。
口に出してまでは言はずとも、心の内で驚き、自分ながらに描いてゐたその人のイメージが崩れるやうな気がする。
どうしてそんなことがあるのでせうか。
どんなに親しい友人であつても、あるいは一緒に暮らす配偶者でさへも、私にとつては「他者」なのです。私が自分ならざる「他者」を完全に、あるいは正確に理解することなどできるはずがない。
なにも虚無的な話をしようといふのではありません。「他者」と「他者性」といふふうに言ひ分けて、この問題を考へてみませう。
「他者」は私の外にゐる「他人」です。それに対して「他者性」とは、私の中にゐる「他人のイメージ」と言つたらいゝでせう。
私が理解してゐるのは「他者」ではなく、「他者性」なのです。
どんなに親しい「他者」であつても、私はその人の思ひを完全に共有することができるでせうか。その人がどんなに悲しんでゐやうと、その悲しみを100%共有して同じ悲しみを感じることはできない。
私が理解しえるのは、どこまでも「他者性」です。
「この人はこのやうな人だらう。かういふ考へをして、かういふ感情を持つ人だらう」
と推測することしかできない。
推測したその人のイメージを「その人」として私は理解してゐるのです。
ところがあるとき、その推測が外れたと感じるできごとが起こる。すると、「そんな人とは思はなかつた」といふことになるのです。
どうして私は「他者性」しか持てないのでせうか。それは、私たちそれぞれがみな「個性真理体」として存在するといふ根本的な存在様式に依るのだと思ふ。
「個性真理体」である私は、「世界の中の一人」(真理体)であると同時に「私の中の世界」の主人(個性)でもあるのです。「私の中の世界」は「私の意識」と言つてもいゝ。
「私の中の世界」には、私のほかに、世界の中に存在するいかなるものも存在しえます。家族も友人も住んでゐるし、ペットも住んでゐる。しかし彼らは皆「他者」ではなく「他者性」として私の中に住んでゐるのです。
「誰かの為に生きる」とか「誰かを愛する」といふとき、それは「他者」の為に生き、「他者」を愛するのでせうか。さうではない。「他者性」の為に生き、「他者性」を愛するのではないかと思ふ。
そんなのは偽りの「利他性」、偽りの「愛」ではないか。そんな気がしないでもないですね。
しかし偽りではない。それが我々の持てる「利他性」の真実であり真実の「愛」なのだと思ふ。
考へてみてください。我々が「神を愛する」といふとき、それは神といふ「他者」を愛するのでせうか。それとも神といふ「他者性」を愛するのでせうか。
私が愛せるのは「他者性」としての神でしかないやうな気がする。「私の中の世界」におられる神を愛する以外にないのではないでせうか。
もう少し正確に言ふと、かうなる。
誰かの為に生き、誰かを愛さうといふ出発点、あるいは動機は「私の中の世界」で「他者性」を対象にして生まれる。そしてそれを実行しようとすれば、「世界の中の私」として肉身を使つて「他者」に向かふ行動となる。

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