「自由の場」を失つた
人生を自由に生きる。自由は誰もが例外なく欲するものの筆頭でせう。
私も自由に生きたい。自由に考へたい。どうしたらより自由な私になれるかと、歳をとるほどに余計強く思ふやうになります。
自由とは何だらう。
自由になりたいと願ひながら不自由さを抜け出られないのはどうしてだらう。
より自由に生きるにはどうしたらいゝのだらう。
さういふことを、今後少しづつ考へていきたいと思ふ。
こゝで私が言ふ自由とは、聖書が
「主の霊のあるところには、自由がある」(コリントⅡ3:17)
と記述してゐる、その自由です。
これを「本心の自由」とも呼びます。今後「自由」と書くときは、基本的に「本心の自由」の意味です。
この自由を、我々は残念ながら失つてゐる。聖書で言ふアダム・エバの堕落によつて、非原理的な愛の力が本心の自由を拘束して以来、いまだに回復できてゐないといふのです。
自由を失つた経緯を振り返つてみませう。
アダム・エバは神から
「善悪の木の実を取つて食べてはならない。食べると必ず死ぬ」
といふ戒めを受けてゐたといふ。
ところがそこへ狡猾な蛇が現れ、
「食べても死なない。むしろ神のやうに賢くなる」
と食べることを勧めた。
そこでエバは神の言葉を捨て、蛇の言葉を取つた。自分が食べたあと、アダムにも勧めて、彼も食べた。
このとき、2人はもちろん、やすやすと食べたのではない。不安と恐怖に襲はれたのです。さういふ心を生じさせたのが自由だといふ。
しかし、こゝで少し厳密に考へてみると、「自由が不安と恐怖を生じさせた」といふ表現は、少し不自然に感じられませんか。「自由」ではなく「良心」としたほうが自然ではないかと思ふのです。
つまり自由とは私の心に直接働きかけるものではなく、良心の働きを有効にする一種の「場」のやうなものだと考へたほうが分かりやすい気がする。要するに、堕落によつて自由といふ「場」が凍結されたために、良心が作用できなくなつたのです。
これが
「非原理的な愛の力が自由を拘束した」
といふことの真意かなと思ふ。
良心は自由といふ「場」においてのみ作用する。この点がとても重要です。
神が願つたのは、2人が自由の「場」において良心の声に従ひ、自ら神の言葉を選び取ることだつたでせう。さうだとすれば、神が「取つて食べるな」といふ戒めをその如くの言葉で2人に与へたといふのはおかしい気がする。
強い命令形の戒めは、2人に強い拘束感(プレッシャー)を与へるでせう。そこに「自由の場」ができるでせうか。自由が制限された場において戒めに従つたとしても、それは良心に従つたことにはならない。
さう考へると、エデンの園の実情は神の直接的な戒めはなかつたかもしれない。それなくして、2人はただ自分の良心にのみ従ふ立場だつた。良心が作用するために、神は2人に完全な「自由の場」を与へなければならなかつたのです。
それなら、聖書に記録された神の言葉「取つて食べるな」とは何だつたのか。それは2人の良心の感覚だつたのではないかと思ふ。
心を鎮めて自分の良心に耳を傾けると、我知らず
「取つて食べるのはよくない。神は願はないだらう。神を悲しませるだらう」
といふ思ひが響いてくる。
これを聖書は「神の戒め」と表現したのではないかと思ふ。
こんにち我々が自由を願ふのは、結局、良心が存分に作用する場を取り戻し、その良心によつて生きることを願ふからだと考へられます。
さてさうすれば、問題は、いかにして自由(本心の自由)を取り戻すかといふことです。

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