霊人はいかにして地上人に再臨協助するのか
臨死体験をどう理解するかといふ話題を通して、霊人体、意識、脳、肉体などの関連性を論じてゐるYoutube動画があります。あくまでも仮説ですが、私には示唆に富んだ面白い仮説に感じられるので、要点を紹介してみませう。
臨死体験については科学的に説明しようとする試みもあるものの、今一つ納得がいかない。科学はそれ自体が認識する世界を3次元世界に限定し、その範囲内で「死」を扱はうとする。しかし「死」自体は3次元の枠を出てゐるものなので、扱ひきれないのは自明な気がします。
一方『原理講論』はどうでせうか。
これは、神が2つの世界(物質世界=3次元世界と霊的世界=4次元世界)を創造したと考へる。そしてそのミニチュアとしての人間にも、3次元世界に生きる肉身と4次元世界に生きる霊人体の2つの体があるといふ。「死」とは霊人体が肉身を離れ、霊的世界に移行(帰還)することだといふ。
その論じ方は存在論的な感じで、分かりやすくはある。しかし認識論的観点からは疑問がないとは言へない。
例へば、霊人体は肉身から供給される栄養素なしには成長できないといふが、栄養素はどのやうに3次元から4次元に流れていくのか。
あるいは、肉身がこの世に生まれ出てくる際に霊人体が入るといふが、それはいつの時点なのか。そしてそれは、なぜその時点でないといけないのか。
さらには、3次元世界を生きてゐる間、肉身の中に霊人体があるとすれば、なぜその間、ふつうの状態では4次元世界を認識できないのか。
かういふ点を念頭に置きながら、動画のポイントをいくつか押さへてみませう。
★★★
脳のシナプスは、生後8ヶ月のころがその数においてピークを迎へる。それ以後は減り始め、10歳ころには半減する。これはどういふことか。
4次元世界で生きる霊人体があるとすれば、それには元々肉身がない。それが3次元世界で生きたいと思へば、3次元世界の人間の肉身に入り、特にその脳を活用するしかない。
生まれる前の脳は4次元世界を認識できる全能性があるので、霊人体はその時点で脳に入る必要がある。そして赤ん坊として3次元世界に生まれる。
生まれた当初、赤ん坊は3次元世界がよく理解できず、言葉も駆使できないから、ひたすら泣きながらこの世界に適合する作業に取りかかる。徐々に3次元世界を認識できるやうに、必要な機能を強化し、不要な機能を刈り取る。そして、脳の機能を土台として「仮想世界」を構築するのです。その作業が生後に始まり10歳ころまでにほぼ完了するものと思はれます。
この「仮想世界」を介して霊人体は3次元の現実世界を認識する。つまり、我々の意識は3次元世界を直接に認識するのではなく、その世界を一旦「仮想世界」に移し替へて、それを現実として認識するのです。
ところが「仮想世界」を3次元世界として認識し始めると、その反面において霊人体は
「この3次元世界こそが世界のすべてだ」
と考へるやうになる。つまり、霊人体が肉身(3次元世界)に閉じ込められた状態になるのです。
さうすると、「死」とは、閉じ込められた状態から霊人体が解放されることを意味する。臨死体験は、一時的解放の体験と言へます。
霊人体が3次元世界から4次元世界に解放されると、どんな状態になるか。
自分の体がどんどん大きくなり、世界と一体となる感覚を味はふ。自分の体が世界に溶け出していく感じと表現する人もゐる。世界と自分、他人と自分の区別がなくなり、それがこの上ない幸福感をもたらすと言ひます。
「仮想世界」ができ上ると、3次元世界を理解でき、そこに適合して生きることができる。しかし4次元世界に対しては、ほぼ閉じてしまふ。ところが臨死体験などで一時的に「仮想世界」が薄らぐと、3次元と4次元を行き来できるやうになるのです。
手術中に麻酔で眠つてゐるのに、その間に臨死体験をして、目が覚めてから手術の一部始終を証言する人がゐます。たいていは、自分が天上のほうまで浮かんで行つて、上から俯瞰してゐたやうな感覚だつたと証言する。
そのときの感覚は霊人体のものでせうが、4次元の霊人体がどうやつて3次元世界を見るのか。3次元から4次元は見えないが、4次元から3次元は見ることができるのかもしれない。
しかし、かういふ仮説も成り立ちます。
自分の肉身から一時的に離脱した霊人体は、今自分の体を手術してゐる執刀医の脳の中に入り、彼の「仮想世界」を借りる。つまり、執刀医が彼の「仮想世界」で見てゐる3次元世界を、一緒に見てゐるのです。だから手術の様子一部始終が分かる。
この仮説は面白いと思ふ。『原理講論』で「霊人の再臨協助」といふものがある。他界した霊人が再び地上(3次元世界)に戻つてきて、地上人の肉身を通して役事(活動)することがあるといふのです。
4次元の霊人がどういふふうに3次元の地上人と相対するのか。『原理講論』ではその説明が曖昧ですが、地上人の「仮想世界」に霊人が入り込むと考へると、イメージがもう少し具体的になります。
「仮想世界」を共有できれば、霊人は地上人が今何を見て、どんなふうに受け止めてゐるかを感じ取ることができるでせう。地上人が喜んでゐれば、その喜びを体感し、辛ければその辛さを体感する。また逆に、霊人の思ひや感覚を地上人に伝へることも可能だらうと思ふ。
この「仮想世界」といふ仮説は、耳慣れない言葉です。しかし考へてみると、アイデアとしてはさほど斬新なものではなく、仏教では2千年前から「唯識論」で説いてきたものとよく似てゐます。
「三界は唯識の所現」
といふ表現がある。
過去世も現世も来世も、すべては私の「意識」の現れだといふのです。「意識」の見てゐる世界が「仮想世界」です。
概して言へば、キリスト教は存在論的な宗教であり、仏教は認識論的な宗教といふふうに分類できさうに思ふ。

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