栄養学原理講義
教育部長のころ、原理講義をずいぶんした。講義しながら、その難しさをいつも感じたものです。
あるとき、原理講義は栄養学のやうなものだと考へたことがあります。
栄養学は、
「この食材には、これこれの栄養があり、カロリーはいくら。毎日の栄養には、これだけの栄養が必要」
と教へてくれる。
聞くと、なるほどさうかと思ふ。参考になる。しかしそれだけでは、実際に私を生かし、成長させてはくれないのです。
実際に食材を体の栄養にするには、食材を手に入れる必要があり、食材の調理法が分からないといけない。さらには、料理をただ口に入れればいゝのではないから、楽しく食べる方法も知らないといけない。よく食べれば、よく出す方法も知つておく必要がある。
かういふ内容を総合的に知り、日々実践してこそ体は健全に生き、成長するでせう。そして成長は緩やかなものだから、日々単調なことを工夫しながら続けなくてはならない。
原理講義を栄養学といふなら、以上のことは生活の知恵とでも言つたらいゝでせうか。栄養学はそのまゝ生活の知恵にならないと考へる。それで原理講義のほかに「信仰生活講座」と言つた講義も別途に準備するのです。
たいていは「神論」「罪論」「救済論」などといつたふうに大きく項目分けし、そのほかに「カイン・アベル」「アダム・エバ」「万物主管」などを付け加へます。もつとも、タイトルは似たやうでも、その内容は講師によつて一律ではない。
ところが本当のところ、「信仰生活講座」などといふものは要らないのかもしれない。本当は原理講義が栄養学にもなり、生活の知恵にもなればいゝのです。
私が内心で「原理講義だけでは難しい」と感じたのは、私自身が原理講義を栄養学としてしか扱へなかつたからではないか。さういふ反省が生じてきます。
原理講義は栄養学のやうに見えて、その実、我々に生活の知恵として吸収されることを要請してゐる。我々自体にその力量がないといけないのですが、それが足りない。創造原理の中に、堕落論の中に、復帰原理の中に、無限の生活の知恵が潜んでゐるはずなのに、それをうまく見つけ出せないでゐるのです。
自ら振り返つてみて、栄養学の奥にこれまで唯一見つけた知恵が「苦痛の甘受」のやうな気がします。これについては、このブログでずいぶん記事にしてきました。
多分もう一つ重要な知恵があるとすれば、それは「良心を自分の神とする」知恵だらうと思ふ。「良心」について『原理講論』ではあまり多く触れられてゐませんが、「本体論」ではかなり強調される。
この知恵は我々を完成に導く鍵に違ひない。さう思ひながら、まだ模索中です。

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