差を取り払つて悟る
「悟り」の語源は「差取り」だといふ説があります。つまり、差を取り払つていつて、遂に差がなくなれば、それが「悟り」だといふわけです。
真説かどうかは知らないが、面白い着想だと思ふ。こゝでいふ「差」とは何でせうか。私はこんなふうに考へてみます。
「差」とは「違ひ」です。「あれとこれとは違ふ」とか「あれはかうではない」などと考へる。違ふから「あれ」は「これ」には決してなれないと決めつける。
例へば、
「あれとこれとは違つて、あれは好きだが、これは嫌ひ」
と好きなものと嫌ひなものを分ける。
あるいは、
「あの人とこの人は違つてゐて、あの人は正しいが、この人は間違つてゐる」
と正誤、正邪を峻別してしまふ。
かういふ「何かと何かは違つてゐて、区別せずにはおれない」、「二つのものは相容れない」と考へてしまふことを「差」と言ふ。だから「差取り(悟り)」とは、「これとあれとに区別はない」、「これも良く、あれも良い」と考へ、両方を差別なく受け入れることです。
人はみな違ひます。気の合ふ人もゐれば、どうしても性の合はない人もゐる。
それは仕方がないのですが、悟つてくると
「この人も好く、あの人も好い」
と思ふやうになる。
違ひはありながらも、好さにおいて差別をしないで受け入れるのです。
我が子でも違ひがありますね。愛しやすい子と愛しにくい子がどうしてもゐる。ある時期にはこの子のほうをよく愛し、別の時期にはあの子のほうに心が近くなることもある。
そんなふうに揺れ動きながら、
「でも結局、どの子も我が子だよなあ」
と納得し、少しづつ自分の心の中の「差」が取れていくのです。
大脳の新皮質は、できるだけ違ひを見つけて細かく対象を分類しようとするでせう。自分にとつて敵か味方か、それをはつきりさせないと生存に支障が出ますから。
味方には肩入れし、敵はできるだけ排除しようとする。右の人は左の人をあげつらひ、ナショナリストはグローバリストを論難する。敵が段々と弱まり、遂にはゐなくなる世界を目指すのです。
しかし悟らうとする人は、新皮質の働きを自ら抑制し、対象をだんだんと差別しなくなるのです。そしてさらに進むと、自分と相手との違ひもなくしていき、自他一如にならうとする。

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