死の体験
解剖学者の養老孟司先生は自分が医学者のくせに病院が嫌ひだといふ。
健康診断なんか受けたくない。あんなものは占ひと同じだ。医者だつて神様ではないから、診断したつて当たるも八卦当たらぬも八卦。なのに、診断結果を聞けば、それが気になつて仕方ない。
ぢやあ具合が悪くなつて、手遅れだと言はれたら、どうするんですか。そのときは、そのとき。手を施してもだめなら、死ぬばかりだ。
死んだつて、自分は一向に困らない。何かの約束があつて、それに行く途中で死んだとしても、困るのは相手であつて、自分は何ともない。あの世に入つて行くなら、そのことだけ考へればいゝ。云々
「死」といふことを考へると怖くなるといふ人もゐるが、基本的に「自分の死」はないと、養老先生は言ふ。明日の朝も目が覚めるつもりで床に入り、そのまゝ死んだら、私はどうやつて自分の死を体験するのか。悲しくもない。
悲しい「死」が存在するのは、ただ、自分の近親者だけのことです。自分の親が死ぬ。自分の配偶者が死ぬ。自分の親しい友だちが死ぬ。あるいは自分の可愛がつた犬が死ぬ。さういふ死だけが、自分にとつて辛く、悲しいのです。
確かにおかしい。毎日多くの人が死んでゐる。コロナの死者が今日何人と、ニュースが伝へる。ウクライナで何人死んだ、ロシア兵が何人戦死したと、毎日耳にする。
何人どころではない。何万人といふ桁違ひの数なのに、それを聞いて、私は悲しくない。可哀さうだとは思つても、悲しいといふ感情はほぼない。
親しい人の死は悲しいのに、なぜ見ず知らずの人の死は悲しくないのだらう。
親しい人が死ぬ場合のみ、私は「死の体験」をする。「死の体験」が悲しみを起こし、心穏やかではゐられなくするのです。
他方、私自身が死ぬ場合は悲しみではない。したがつて、それは「死の体験」ではない。見ず知らずの人が死ぬ場合も悲しみがない。それもまた私にとつては「死の体験」ではないからです。
つまり私は、親しい人が死ぬ場合にのみ「死の体験」をしてゐることになる。かういふ「死の体験」ができる親しい人を持つといふことが、我々の人生でとても重要なことのやうに思へます。
私に「死の体験」をさせてくれるほどに親しい人は、人生にそれほど多くないでせう。まづは、自分の家族。そしてごく親しい友人。それくらゐのものです。
自分に「死の体験」をさせてくれるほどに親しい人を、それぞれが数人づつ持つてゐる。そのつながりが、この世界を支へてゐるとも言へます。
誰かが誰かを失ひたくない。その人の為なら、なんでもやつてあげたい。その小さな繋がりが核となつて、大きな世界が運行してゐるのです。

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