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いかにして幸福な人になるか

kitasendo
幸福な人

あなたが経験する行為はあなたの存在から生じるのであって、行為があなたを存在に導くのではないということだ。あなたが最初に「幸福」であれば、幸福だから何かをすることになる。幸福になりたいから何かをすると言う古いパラダイムとは逆だ。… 「行為」によって「存在」に行き着くことはできない。
(『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ)

「行為」と「存在」はどちらが先か。そんなふうに言へば、理屈つぽい哲学命題を立てるやうで小難しい話になりさうですが、まあちよつと考へてみませう。

従来のパラダイムでは、
「幸福になるための行為」➡「幸福である状態」
と考へる。

このパラダイムの前提は、最初の私は「幸福ではない」といふことです。だから幸福を求めて、何らかのアクションを開始する。努力や工夫、忍耐などがないと幸福にはなれないと考へる。

あるいは、今が幸福でも、うつかり気を緩めると、その幸福を失ふかもしれない。つねに幸福を失はないやうに気を張つて、努力を続けなくてはいけない。

それに対して、神が提示するパラダイムでは、
「幸福である状態」➡「幸福である人の行為」
と考へる。

最初から無条件に「幸福である」といふ状態から話が始まるのです。すでに「幸福である」人にとつて、「幸福になるための行為」は必要ない。ただ自然に「幸福である人」らしい行為が生まれるばかりなのです。

神は自分が提示するパラダイムこそが適切であつて、従来のパラダイムは思ひ違ひだといふ。本当にさうでせうか。

我々のパラダイムは概して、行動や努力を高く評価するものだと思ふ。

ある程度お金がないと幸福になれないと思ふから、一生懸命勉強して良い仕事につき、高収入を得て幸福を手に入れようとする。人間関係が円滑でないと幸福になれないと思ふから、人の気持ちを慮り、気を使ひ、状況に応じて自分の気持ちを抑へる。

しかしさういふやり方では、「幸福」は手に入らない。「行為」は「幸福」をもたらさないと、神は言ふのです。

それなら、何らの「行為」もなしに、最初から私は「幸福」でありえるのでせうか。「幸福」とはそもそも何かといふことを改めて考へてみる必要がありさうです。

何らかの「行為」をしなければ「幸福」になれないと考へるのは、「今の私は幸福でない」といふ私自身の意識にその起点があります。

「あれがない、これがない」
「あの人と比べて、私にはこれが足りない」

さういふ思ひが、私に「不幸感」を植ゑつける。だから、これを克服しようとして「行為」が始まるのです。

とすれば、私の意識そのものを変へてみる。

「あれがある、これもある」
「あの人にはない、かういふところが私にはある」

そのやうにして、
「自分には幸福であるべき条件が十分にある」
と思へば、私はすでに幸福でありえるのではないか。

そんなのは単なる思ひ込みであつて、現実は何も変はつてゐないではないか。さうとも思へます。

しかし実は、こゝに重要な鍵がある。

「現実が変はらなければ私は変はらない」
といふ考へ自体が、古いパラダイムなのです。

言つてみれば、
「現実が私の意識を変へる」
といふ思考パラダイムです。

それに対して神が提示するのは、
「私の意識が私の現実を変へる」
といふ思考パラダイムです。

これは一般にもよく言はれるニューエイジ系の話にも聞こえる。しかしもう少し厳密に言ひ直す必要があります。

「私の意識が、私の意識的現実を変へる」

私の意識が「幸福だ」と変はると、それにつれて変はるのは「私の意識的現実」です。これを私は「私の中の世界」と呼んでゐます。

ふつう我々は「世界の中の私」つまり70数億の人類の一人として生きてゐると思つてゐる。それはもちろん幻想ではないのですが、同時に「私の中の世界」にも生きてゐるのです。

その世界を創つてゐるのは私の意識であり、その世界の主人も私です。その世界を幸福な世界として創ることができれば、私は幸福な人になります。幸福はこの世界の中にしかない。

「行為」とは「私の中の世界」から外側に向けて働きかけることなのです。だから、幸福でない人が幸福な人の行為をなすことができる道理はない。

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