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李瞬臣を私は嫌ひだ

kitasendo
李瞬臣

李舜臣(イ・スンシン)と言へば、秀吉の朝鮮出兵の折、祖国を守つた将軍として、今でも韓国では歴史的な英雄に列してゐます。1968年には当時の朴正煕大統領の号令で、首都ソウルの真ん中に、背後の王宮を守り、日本をにらむやうにして彼の銅像が建てられた。そして、2017年の大学生意識調査ではしつかり「尊敬する韓国人」のベスト3に入つてゐる。

ところが日本では、「卑怯者」といふ真逆の評価もある。一連の戦闘のあと、日本と明とのあいだで相互撤退の合意が結ばれ、小西行長らが撤退を始めたところへ、李将軍らは約束を破つて背後から攻撃を開始したといふのです。しかもこの戦闘で、将軍自ら不覚にも命を落としてゐる。卑怯者の惨めな死にざまにも見えます。

文鮮明先生もその講話の中で李将軍にふれて、
「韓国では英雄だが、私は嫌ひだ」
と言つておられます。

文先生には独特の観点があり、ある国には英雄でも、別の国では怨讐である、さういふ人は「真」ではない。「真」でない人は尊敬に値しないといふのです。

李将軍に限らず、同一の人がある人から見れば善人であるのに、別の人から見れば悪人であるといふやうなことは、いくらでもあるでせう。どうしてこんなことがあるのか。考へてみませう。

私が誰かから悪口を言はれ、批判されたとします。それがどんな内容であれ、気になりますね。あまりにひどいと、心が挫けることもあるでせう。

しかし、批判する人は私の何を見て批判するのでせうか。私を見てゐるやうですが、実はさうではない。私の姿にその人の内面が映し出されてゐるのを見て、それを批判してゐるのです。

つまり、かういふことです。

その人は自分の中に、自分でも受け入れがたい何らかの要素を抱へてゐる。私を見たときに、その要素が私の姿に反映されてゐるのを感じ、どうしても批判せずにはおれない。といふことは、その人は私を批判することを通して、その人の中にどんな要素があるかといふことを自ずから公表してゐるのです。

それが証拠には、同じ私を見て別の人は好いてくれ、称賛してさへくれるかもしれない。私といふ人間は一人だけなのに、人によつて評価が真逆にさへなる。それは私を評価する人それぞれが、自分自身の内面の反映を私の姿に見てゐるからです。

李瞬臣は単なる一人の人間であつて、英雄でもなければ、卑怯者でもない。彼を見る人の内面が彼の姿に映し出されて、ある人は彼を英雄と言ひ、ある人は彼を卑怯者と感じるのです。

もしあの世に行つて李瞬臣さんに会ふ機会があるなら、彼は多分ただの人だらうと思ふ。彼は李氏朝鮮時代に京畿道の両班の家に生まれ、32歳で科挙に合格し、のちに将軍となり、日本軍との海戦で戦死した一人の男です。あの世に行けばそんな経歴なども、半ば忘れ去つてゐるかもしれない。

誰かが彼を英雄だと言つても、彼が彼以上の者になるわけではない。誰かが彼を卑怯者と呼んでも、彼が彼以下の者になるわけでもない。彼は自分自身が何者であると意識する者以外の何者でもないのです。

さう考へると、私が誰かから批判されたり、反対に称賛されたりしたとしても、それで私が他の何者かに変はるわけではない。人々は自分自身の内面を映し見ながら、私のことをあれこれ言つてゐるに過ぎないのです。私も私自身が何者であると意識してゐる者以外の何者でもないのです。

ただ、私自身が「真」なる者になるべく一途に生きるしかない。世界万民から等しく英雄であると評されるのは、並大抵のことではありません。

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