「あるべき」と「あるがまゝ」
真夜中、寝てゐると、しばしばおばあちやんの部屋から声が聞こえてくることがある。最初は半分寝た意識でぼんやり聞いてゐるが、往々にしてその声はなかなかやまない。
「〇〇ちやん、おらんかね~」
と繰り返し私の名を呼び続ける。
私をしきりと呼ぶのは、目が覚めてみるとそばに誰もゐない。寂しくてしやうがないので、「寂しいよ~。一人にしないで~。来てくれ~」と呼び続けるわけです。
しかし、呼ばれたつて、私もちよつとやそつとでは行かない。せつかく温めた布団から出るのはいやです。しばらく待てば、そのうちに呼び疲れて寝てしまふことも多い。それを待つてみるのです。
ところが、日によつてはいつまでもやまない。呼び声はだんだんと泣き声に変はる。「寂しいよ~」とオイオイ泣きながら呼び続ける。さうなると仕方ない。温かい布団から抜け出ざるをえません。
こんなおばあちやんに対応しながら、あるときふと感心することがあります。
「おばあちやんは、寂しければ大声で泣くし、気に食はないことがあれば大声で怒る。思ひのまゝでいゝなあ」
おばあちやんの泣き声を聞きながら、
「私は最近、こんなふうに大声で泣いたことがあるかなあ?」
と、思はず自問する。
記憶をさかのぼつていくと、こゝ数十年間、そんな記憶がない。もしかして、物心がついて以来、一度もないかもしれない。
大声で怒つたことは何度かある。腹を抱えへて笑つた記憶もなくはない。
しかしいづれにしても、振幅の大きな喜怒哀楽はめつたにない。大声で泣くことがない代はりに、大声で怒ることも、腹を抱へて笑ひ転げることもない。何か美しいものに陶酔して我を忘れるといふこともない。
いゝ大人はふつう、自分の感情をありのまゝに表すやうな子どもじみたことはしないものだ。おばあちやんにそれができるのは、認知症のお蔭ではないか。確かにさうかもしれない。
しかし心のどこかで「羨ましいなあ」と思ふのも確かなのです。なぜだらう。
生きてゐる心は本来、激しい感情を内包してゐるものではないのだらうか。嬉しいときには、とても嬉しい。悲しいときには、とても悲しい。腹が立つときには、心底腹が立つ。それが生きてゐる心といふものではないだらうか。どうもそんな気がするのです。
物心がつくころから、「人は社会的にかうあるべきものだ」といふ「あるべき」が心を押さえつけてきたのではないか。男はかうあるべき。父親はかうあるべき。信仰者はかうあるべき。べきべきべき…。
しかし、赤ん坊はところ構はず泣きわめく。認知症の年寄りも夜昼構はず大泣きする。人間にはかういふ本性もあるよ、「あるがまゝ」も悪いものではないよと、教へてくれてゐるやうな気もする。

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