親子関係に必然性はない
二人の子どもたちが家を出て、それぞれの生活を始めるやうになると、のんびりもしてくるが、ときどき寂しくもある。家の周りで用事をしてゐるとき、ふと昔のことを思ひ出したりする。
「子どもたちと一緒に、こんなことをしたことがあつたなあ」
と思ひ、小さかつた子どもたちの姿が脳裏によみがえる。
先日もそんなことがあつたのだが、そのときふと、
「あのとき、私が親で、彼らが子どもだつたのだが、どうしてさうだつたんだらう?」
と思つたのです。
つまり、私が親で、彼らが子どもであるといふ必然性はあつたのだらうかといふことです。私が子どもで、彼らが私の親であつてもよかつたのではないか。さう考へると、親子関係に必然性はないやうな気がしたのです。
もし彼らが私の親であつたら、彼らは私をどんなふうに愛し、どんなふうに育ててくれただらうか。どんな親子関係が作られただらうか。
そんなことを考へていくと、親子関係といふのは永遠不変なものではない。もしかして、この世だけの仮の関係、一時的な役割分担なのかもしれない。
「この世の人生では私が親の役をするので、君たちは私の子どもの役を担当してください。よろしくお願いします」
さういふ約束ごとなのかもしれない。
どうしてそんな約束をするのか。それはその役ならではの味を味はふためだと思ふ。
親の役をしてみないと、親の味は分からない。そのためには誰かが私の子ども役を引き受けてくれないといけないが、誰がその役になるかによつて、親の味も違つてくるでせう。
素直な子ども。頑固な子ども。性格も才能も、子どもによつてみな違ふ。たまたまその人が私の子どもになつてくれることで、私は他にはない唯一無二の親の味を味はふことができる。
一方、子どもたちも私の子どもの役を引き受けることで、一つの運命を受け入れたのです。ほかの親であつたら、もつと優しかつたかもしれない。もつとうまく教育してくれたかもしれない。
しかし実際には唯一の親しか選べないので、私のもとに子どもとしてやつてくることで、私の子どもとして生きるといふ運命を背負つた。それが幸福であつたかどうか。まあ、それを問うても仕方ないでせう。
さて役割であるなら、我々の親子関係はいつまで続くのか。輪廻転生の思想なら、来世では彼らが親で私が子どもなることだつてありえる。しかし私はこの世の人生は一度きりだと考へるので、親子関係がひつくり返ることはないと思ふ。
ただ、この世の親子関係はそれぞれの役を演じながら、親としての心情、子どもとしての心情を味はふのが目的であるなら、その目的さへ達すれば、親子関係は限りなく薄まつていくのではないかと思ふ。つまり、親子は友だちのやうになるか、あるいは兄弟(姉妹)のやうになる。
子どもたちが独り立ちするやうになれば、親はいつまでも親面をする必要も、するべきでもない。むしろ一人の対等な人間として対する。
子どものほうが人間として優れた点が多いかもしれない。それは謙虚に受け入れ喜びながら、それでもかつて親として愛した体験を生かして、心からにじみ出る愛で接する。そんなふうでよいのではないかと思ふ。

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