記憶のまゝに行動していゝのか
前回の記事「専門家は一から学習しない」の続きです。
「過去」に頼つて未知の「今」に直面する。これは何も「その道の専門家」に限つた話ではない。特別な専門家ならざる私のやうな凡俗でさへ、「今」の問題を「過去」に頼つて判断するのが常なのです。
経験を積み、歳を重ねるほどに、「一から学習する」ことをしなくなる。「過去にも似たやうな事例はなかつたか」と振り返つて検索し、うまく見つかればそのときと同じ対処をする。それは確かに効率こそよいかもしれない。しかし、新しい発展がなく、成長がないと思ふのです。
過去の体験情報は「記憶」といふかたちで蓄へられてゐます。どこに蓄へられるか。仏教の唯識論では「阿頼耶(アラヤ)識」といふかなり深い意識層がその倉庫だといふ。アラヤとはサンスクリット語で「蔵」といふ意味です。今で言へば深層意識と言つてもいゝでせう。
ところが、すべての体験情報がこゝに入るのではない。体験に感情がプラスされたものだけが入るといふのです。つまり、体験するときに「うれしい」とか「つらい」などと言つた何らかの感情が付加されたものだけが阿頼耶識に入つて、「異熟(これを記憶と呼んでおきます)」といふものになる。
これが一定期間をかけて熟しきつたとき、ポンと出てくる。異熟が出てきたとき、それが因となつて私の「今の体験」として果を結ぶ。これを「因果の法則」と呼ぶわけです。
この記憶が果を結ぶことを、ホ・オポノポノでは「記憶の再生」と呼びます。いづれにせよ、この記憶には過去の感情がまとはりついてゐる。だから純粋な出来事の情報ではないのです。
例へば、特定のことになぜかとても固執する。ある人には無闇に惹かれ、ある人は生理的に反発する。かういふ「今の体験」が我知らず(無意識的に)起こるのは、それらが「記憶の再生」であるからだと考へられます。
意識的に「今の体験」を選んでゐるのではなく、意識する前に異熟が勝手に出てきてしまふ。意識は「今の体験」を否応なくさせられるのであつて、選ぶことはできないのです。
さう考へると、「今の体験」を過去のデータによつて判断しようとすれば、どうしてもそのデータにまつはる過去の感情に影響されてしまふ。この感情の色合ひを浄化し無色にするには、どうすればいゝか。
「今の体験」を後追ひで意識的に吟味するしかないと思ふ。
「どうして私はこのことにだけ無闇に固執するのだらう? 今の体験が私の固執に気づかせてくれたので、これをきつかけに固執の記憶を手放してしまはう」
このやうに無意識から出た「今の体験」を後追ひで吟味する。これこそが意識の重要な役割ではないかと思ふ。
これに関連する『原理講論』の箇所を引用してみます。
善を指向する心はアベルの立場であり、罪の律法に仕える体はカインの立場である。したがって、体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私たちの個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。 (『原理講論』アダム家庭) |
カインが兄、アベルが弟です。それゆゑ必ず、体の思ひ(記憶)が先に現れ、それを追ふやうに心(意識)が起動する。
そこで心が体に命令するとは、
「あなたは記憶のまゝに行動していゝのか?」
と意識的に疑問を呈することです。
そのとき、体が心に従へば、体は記憶を手放して善化される。もし従はなければ、記憶のまゝに過去と同じ行動をとつて悪化される。
宗教で従来「修道」が強調されてきたのは、「あなたは記憶のまゝに行動していゝのか」とつねに自問せよといふことだと思ふ。

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