同じものを違ふと見なす
昨夜のNHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語」を興味深くみました。
abc予想の何がそんなに重要で、どこがそんなに難しいのか。その純数学的な議論は私にはまつたくできない。ただ、番組の中で出てきた一つのフレーズが私の関心を引いたのです。
数学者アンリ・ポアンカレがかつて、
「数学とは、違ふものを同じだと見なす技術である」
と言ひ残したといふ。
例へば、こゝにリンゴが3つある。もう一方に、紐で三重に巻いた棒がある。一見するとこの二つはまつたく違ふものです。ところが人間はこの両者の間に共通点を見出す。それが「3」といふ数字なのです。
つまり、違ふものを同じだと見なしてゐる。これが数学の始まりだらうといふのです。
「違ふものを同じだと見なす」といふ原理を基本として、こんにちまで数学は構築され、発展してきた。ところがabc予想を証明するためには、この基本原理ではどうしてもうまくいかない。基本原理そのものを転換させるしかない。
つまり
「同じものを違ふと見なす」
といふ大転換が必要だといふのです。
これまでの数学原理では誰一人として解けなかつたabc予想。それを原理をひつくり返すことで証明して見せたのが望月新一といふ数学者です。
ところが、この証明が正しいかどうか、他の数学者たちが寄つてたかつて、今なお確認できない。「素晴らしい発想だ」といふ学者と「論理破綻だ」といふ学者の間で喧々諤々の大議論が続いてゐる。
なぜ証明の確認ができないのか。素人なりに考へると、使ふ言語が違ふのだらうといふ気がする。
これまでの言語は「違ふものを同じと見なす」言語だつた。そこへ望月教授は「同じものを違ふと見なす」言語を語り始めた。比喩的に言へば、英語しかなかつた世界に日本語を持ち込んだやうなものです。
英語ではどうしても表せないことを日本語なら表せると言つて出てきた人がゐるのですが、それを日本語で喋つてゐるので、英語話者たちにはまつたく理解できない。さういふ状況に見えます。
これは面白いことになつてきたなあ、と思ふ。
これまで人々は英語だけで生きてきた。ところがこゝに新しい日本語といふ言語が現れて、日本語のほうがもつと使ひ勝手がいゝといふことが次第に認知されるやうになれば、世の中は英語の世界から日本語の世界に変はる。さてさうなると、この世は一体どのやうに様相が変はるだらうか。根本的に変はる可能性がある。
こゝから話は、abc予想をだんだんと離れます。
数学者は数学を「違ふものを同じと見なす技術」と言つたのですが、考へてみれば、これは数学に限つた話ではない。人間の意識そのものの基本が「違ふものを同じと見なす」機能なのです。
さきに「リンゴが3つ」と言ひました。しかしそこにある個体は色や形や香りなど似てはゐるが、まつたく同じではない。その違ふものを一括りに「リンゴ」と呼ぶのは「違ふものを同じと見なす」意識の働きです。この働きなくして「言葉」は生まれない。
数学はこの意識の機能を最大限に最も純粋な形で活用した学問とも言へるでせう。それで数千年間発達してきた。ところが今こゝにきて、「違ふものを同じと見なす」方法ではうまくいかない問題に遭遇したのです。
そこで新しい方法は何かと探すと、「同じものを違ふと見なす」といふ方法に思ひ至つた。リンゴの例で言ふなら、互ひに似てはゐるけど同じものではないと見る。
どんなものも一括りに見ない。もう少し広げて言へば、ものごとを先入観で見ない。「これはこれまでかうだつたから、これからも同じだらう」といふふうに考へないといふことにもなる。意識の働きを「意識的」に抑へると言つてもいゝでせう。
意識の力は我々の生活を合理化させ、社会の秩序を高め、科学を発達させて生産性の高い大都会を作り上げた。人間ならではのものです。しかしその反面において、意識だけでは我々の人生やこの世の実相といふものを深く、広く、的確に把握することはできないのではないか。
今回、望月教授が提出したabc予想の証明は、人間の「意識」そのものを見つめ直す契機になりえるかもしれない。そんなふうに感じて、私は素人なりにこの番組を面白く思つたのです。

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