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神が私の祝福となるとき

kitasendo
私の祝福となるとき

あなたの仕事は、彼ら(子どもたち)を自立させること、できるだけ早く完全に、あなたなしにやっていきなさいと教えることだ。彼らが生きるためにあなたを必要としている限り、あなたは彼らにとって祝福とはならない。あなたが必要ないと気づいた瞬間に、はじめて祝福となる。同じ意味で、神の最大の瞬間は、あなたが神を必要としないと気づいたときだ。
(『神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ)

久しぶりに『神との対話』シリーズを読み直してみました。このシリーズの中で語られる神の言葉には、「神とはかういふかただらう」といふ私の考へをひつくり返すアイデアが溢れてゐます。上の言葉もその一つで、特に最後の一文にはハッとします。


「神が私の祝福となるのは、私が神を必要としないと気づいたときだ」
とは逆説的ですが、本当でせうか。といふよりも前に、そもそもこれはどういふ意味でせうか。

前半では親子関係について話してゐます。子どもがいつまでも親依存であれば、子ども本人にもよくないし、親も困る。だから、子育ての成功は子どもが立派に自立することだといふのはよく分かります。

子どもが成長して親元を離れ自立するといふのは、まづ経済的な依存を離れることでせう。そして、子どもも独立した個人として社会の中でそれなりの責任を担つて生きていく。しかしさうかと言つて、親と縁を切るといふわけではない。心の繋がりは残り続けます。

神と人間との関係も、これと同じだといふのです。「神を必要としない」とは、人間が神から自立するといふことです。

それなら、人間が神から自立するとはどういふことでせうか。

本来、宗教の目的は人間を神から自立させることだと言へるかもしれない。しかし現実にはある面で、人間をしてより神依存にしてきた嫌ひがある。そのことを神は本書でしばしば指摘します。

宗教が我々に提示してきた神は往々にして、怒りの神であり、妬みの神であり、審判の神でした。あまり喜んで近づきたい神ではないが、気にかかるので無視もできないのです。だからさういふ神を「必要とされることを必要とする神」とも表現する。

しかし本当の神は「必要とされることを必要とする神」ではない。むしろ「必要とされない神」であることを望んでゐるといふのです。

神を必要としない自立した人間になるには、成長しなければならない。成長とは何かについて、神はこんなふうに表現します。

精神と身体と魂をあげて、神の姿をかたどり、神に似せて自己を創出するプロセスに没頭する。

これはとても聖書的な概念ですね。聖書の冒頭に「神は自分のかたちに似せて人を造つた」とあるので、人間の成長と完成とは、その神のかたちに自己を似せていくことであるといふのです。

それなら、神のかたちに似せるとはどういふことか。そして神のかたちに似て、神から自立するとはどういふことか。これをもう少し具体的に、私なりに考えてみませう。

神は人間を神のかたちに似せて造つたのですが、もちろんそれは初めから完成形ではない。必ず成長のプロセスが必要です。そのために、神は一人一人にその人だけの「良心」を当てがつた。

これはどういふことでせうか。良心は人間が神から自立するために、どうしても必要なものなのです。

神がもし人間に良心を当てがはなければ、どうなるでせうか。人間が成長していく際に、何が有益で何を優先すべきか、その選択をすべていちいち神に直接尋ねなければなりません。

例へば、エデンの園でアダムが神から戒めを聞いたといふ。「取つて食べるな」と言はれたが、「食べよう」といふ誘惑が来る。そのときどうすべきか。それを神に直接尋ねるのではなく、自分の良心に尋ねるのです。

彼が自分の良心に尋ねて適切な判断をし、原理軌道を逸脱しなければ、彼は自立に向けて大きく前進する。責任を果たしながら成長することができます。

そして遂には、神にまつたく尋ねる必要がなくなる。良心に尋ねれば、良心は間違ふことがない。神の意志とまつたく軌を一にするので、結局神を必要としなくなる。

そのことに気がついたとき、それが神にとつて最高の瞬間であり、神が人にとつて祝福となる瞬間なのです。アダムが堕落したといふのは、彼が自分の良心を神の位置に立て損なつたことであり、それゆゑに神の祝福を失つたのです。

これは我々の場合も同じです。神が我々に「自立せよ」と言つてゐるのは、自分の良心を神のごとくにせよといふことでせう。それは神にとつてうれしいことに違ひない。

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神との対話
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